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aikoわんこそば Part.5(4thアルバム「秋 そばにいるよ」)

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kenzee「菊地成孔さんがaiko大好きなのだそうだ

司会者「意外ですな」

kenzee「ラジオにてaiko好きを告白しているのだが尋常じゃない愛なのだ」

司会者「菊地さんってもっとタイの巨乳美人みたいな人が好きかと思ってました」

kenzee「でも、あんな人、菊地さんのお住まいの歌舞伎町にはいないよ。たぶん、キャバクラとか行ってもいない」

司会者「貧乳で面接落とされるしね」

kenzee「なんでも聞いてみないとワカランなあ。最近、聞いてみないとワカランこと多いワ。友達が知らない間に結婚してたりして。しかも子供ももうすぐとか。これがまったくそういうタイプじゃないヤツなんですよ。あと、若い頃は運動のウの字もなかったヤツがスゴイ鍛えてたりとかね。そうするとこの20年ぐらいの私の人生とは…とか考えるようになってだな」

司会者「あんまりaikoの話する気分じゃないと」

kenzee「テンションは下がっている」

司会者「でもマラソンは走っていただきます」

Aiko4

kenzee「今回は2002年9月に発表された4thアルバム「秋 そばにいるよ」だ。2002年といえばそろそろCD業界のセールスの落ち込みが深刻化してくる時期だ。シングル3枚を含んでいるが、オリコン最高位は2位と健闘した。この頃から前作における「ボーイフレンド」のようなインパクトのあるシングルがなくなっていく。これは業界全体がいわゆるヒット曲がだせなくなっていった時期なのだ……ハ~ア~結婚か…子供か…さて、1曲目からいこう」

・1曲目「マント」

kenzee「珍しく16ビート曲で幕を開ける。しかもドラムループつきだ。つまり、「花火」以降の1曲だ。EonG#から下がっていくヘンなコード進行のイントロに続いて割と素直なAメロが始まる。最近気づいたのがaiko曲には必ずイントロとアウトロがあるということだ。これほど実験的なaiko曲がトータルとして歌謡曲に聞こえるのはナゼかと考えていたのだが、ひとつの要因としてこの、イントロアウトロつきが考えられるだろう。洋楽育ち、とくにブラックミュージック育ちを自認するバンドにはこのイントロメロというのは少ない。イントロ用メロがあるとどうしても「さあ、ハリキッテ歌っていただきましょう!」みたいな感じになるし、なに聞いても筒美京平かシャ乱Qのように聞こえてしまう。ストーンズやビートルズを想起していただければわかるが、洋楽のイントロで圧倒的に多いのは楽器が折り重なっていくヤツ(オルタード…レイヤーなんとかって確か言葉あったと思う)だ。aikoは相当洋楽に精通しているハズだが頑なにイントロアウトロを守ろうとするのだ。これが結果的にaikoからサブカル感を拭っている。実験的なのに実験的に聴こえない秘訣がここにあるようだ。しかし、aikoの16ビート路線の曲は大体好きだが、これはあまり上手くいっていない気がする。なんか例のポール曲に行きたいのか「花火」的なトレンドを追おうとしているのか判然としない曲だ」

司会者「なんか、ハギレ悪いね」

kenzee「子供かア……」

・2曲目「赤いランプ」

kenzee「珍しくマイナーコードから始まる。ディストーションギター2本によるギターロック。いつもよりチューニングの高いスネアがバンド感を高める。ただし、アレンジにまったくアイデア性が感じられない。ギターが2本とも似たようなストロークをジャンジャカやっているのはどういうわけか。迷いが感じられる。確かにイマイチ方向性の見えない曲だがなにかアヤをつけたいところだ。また、ギター曲の割にFm→F→A♭とギターにとって結構ツライキーなのも考えものだろう。ヴォーカルに合わせたキーだというのは理解できるがこの曲調なら理想のキーはAmだろう。消化不良の1曲」

司会者「ハギレ悪いなア」

・3曲目「海の終わり」

kenzee「再びC#m7というマイナーコードからスタートするイントロ。16ビートのギターサウンド。「マント」以上の残念感が漂う。大体このアルバム、こんなに長時間ギターがジャンジャカ言ってるのも辛い。吉田拓郎じゃないんだから。「秋をテーマに」という企画意図があるので、マイナーキーということなのだろう。その発想だけはいい悪いではなく、不思議な感じがする。70年代のフォークシンガーならまだしも90年代の終わりにデビューした人の発想とは思えない。ちなみに小西康陽さんは秋をイメージして、と言われるとスグメジャーセブンスコードを弾いてしまう、と言っていた。それは理解できる。秋→マイナーコードというセンスはもはや稀少だと思うのでその感性は大事にしてほしいものだ」

・4曲目「陽と陰」

kenzee「「愛の病」の続編のようなAm7-5から半音下がり進行のギターロック。アンサンブルは「愛の病」と同様。しかし、愛の病ほどハっとするポイントは見当たらない。メロディもコード進行に沿ってとってつけた感が否めない。この頃のaikoは実に不調だ。そもそもこの人の資質的にギター音楽は向いてない気がするのだ。そもそもAm7-5→A♭M7→Gm→G♭みたいな進行にリフをつけることはギターという楽器の構造上、不可能である。となると、愛の病同様ギタージャンジャカロックにせざるをえない。ギターサウンドが好きなのはわかるが、作曲家としての彼女はギター曲には向いていない。今のところ、このアルバムの方向性が見えない。心配だ」

・5曲目「鳩になりたい」

kenzee「ようやくaikoらしいシャッフルビートの60年代ブリティッシュポップの登場である。ファーストに入っていてもおかしくない、のびのびとした1曲。なによりドラムが楽しんで叩いているのがわかる。ムリにサンプリングループとか同期ものと合わせるとかやるとロクなことがない、というのがこのアルバム前半の教訓であろう」

・6曲目「おやすみなさい」

kenzee「バラード作家としての才能が発揮された1曲。ザ・バンドを思わせるイントロに続きてすべての楽器が必然性をもって存在する。右チャンネルのアコギと左のエレピがまったく食い合うことなくコードを支える。サビの歌メロとストリングスが食い合うこともない。完全にバランスのとれたアンサンブル。前向きな別れのシーンが描かれるが、詞、曲、アレンジ、どこにもムダがない。まさに情景の浮かぶ曲だ。「赤いランプ」あたりだとスタジオで演奏者みんなが眉間にシワ寄せてやってる光景が目に浮かぶのだ。レコード演奏たるもの、スタジオ風景が想起されてはいけないのだ」

・7曲目「今度までには」

kenzee「「飛行機」の続編のようなブリティッシュロック。半分が過ぎたが今回はこれでもかというほどのディストーションギターの世界。そろそろオナカいっぱいだ。後半で挽回があることを祈る」

・8曲目「クローゼット」

kenzee「まさかのディキシーランド・ジャズ! これだ!これなのだaikoに求めるものは。アメリカ南部へ向かったときの作家aikoの冴えは尋常ではない。たった3分の曲だがこの1曲だけで1000円ぐらいの価値がある。前半2分ぐらいはジャズのアンサンブルで後半いつものセッションとなる。想像だが、おそらくいつものセッションで丸々1曲録ったのだろう。だが、誰かが「コレ、本物のディキシーみたいにしたら面白いかもシンマイ!」とアイデアがでたに違いない。そういうアイデアを誘発するような曲というのがあるのだ。「イジワルな天使~」とか。コレがなかったらホントに辛いアルバムだった。たった3分が全体を救ったのだ」

・9曲目「あなたと握手」

kenzee「見事なオケ! 迷いのないアレンジ! この曲はストリングスのバックメロの勝利である。一体、前半の迷いまくりのギター世界はなんだったのかというほど後半で盛り返すアルバムである。突進してくる8ビート。まったくムダのないアンサンブル。ハープが鳴る、ハンドクラップが鳴る。ティンパニが轟く。ストリングスが常に歌と戦いながら高めあってゆく。ベースのミックスがデカイのもいい。ロックンロールオーケストラとしか呼びようのない見事なセッションである。ここまで完成度の高いオケで果たして線の細い声の歌手が対抗できるのか。その緊張感たるや尋常ではない。このアレサ・フランクリンや美空ひばりのような大歌手が乗ってもおかしくないオケで歌手aikoはよく戦った。この曲に関わった全員がひとつのイメージへ向かっていったとわかる、全員野球のオケ。このセッションが終わった瞬間、スタジオから歓声があがったに違いない。こんなオケを聴いたら友人の結婚も素直に祝福する気になる」

・10曲目「相合傘(汗かきMix)」

kenzee「スミスのような80年代ニューウェイヴを思わせるチェリーレッドやラフトレードといったレーベル名が想起されるキンキーな1曲。これはギター曲だけどいい曲ですよ。こういう曲はピアノで作った段階で完成品が作者に見えているのだと思う。とりあえずできたが、アレンジどうしよう、みたいな曲は最後まで方向がさだまらないまま、座礁してしまうことになる。しかし、後半の打率の良さはどうしたことか。このアルバムもしかして曲順設定ミスなのではないか」

・11曲目「それだけ」

kenzee「「初恋」の続編のような大作のバラード。鉄板。エンディング近くで「ただあなたが好き」と繰り返す波のようなグルーヴは見事だ。ありきたりの言葉に命が吹き込まれる瞬間のドキュメントだ」

・12曲目「木星」

kenzee「必ず1曲入るヘンテココード進行のワルツ曲。この変態作家とギター作家が同じ人物の中に同居していることの不思議。この曲のメジャーセブンス感にようやくボクは秋感を感じることができた。「届けられるもの すべてを両手に抱え~」の転調で聴く者すべてをクルマ酔いにさせる悪魔のナンバー」

・13曲目「心に乙女」

kenzee「キャロル・キング、ローラ・ニーロ、ジェームス・テイラーといった70年代のニューヨークのシンガーソングライターを想起させる内省的なバラード。たどたどしいトイ・ピアノにストリングスが絡む針小棒大なアレンジが都会に生きる若者の内省的なつぶやきを演出する。ウィスパーヴォイスで歌われるのはささやかな祈りだ。このアルバムで彼女は歌の表現力が一気に増したのである」

・アルバムトータルの感想

kenzee「とにかく前半はヒヤヒヤした。後半盛り返したからよかったものの、前半のギター大会はいただけなかった。ギターが好きなのはわかるが自身の資質とよく相談するべきだ。そもそも線の細いソプラノ声の歌とディストーションギターは相性が悪い。耳、キンキンしますワ。「秋 そばにいるよ」言いながらこんなガーガーギター聴くことになるとは思わなんだ。それより自身のバラーディアンの資質ともっと向き合うべきだ。「あなたと握手」「心に乙女」「クローゼット」の60年代の東海岸の世界、グリニッチ・ヴィレッジのコーヒーハウスすら想起させるニューヨークの世界。ラヴィン・スプーンフル、フィフス・アヴェニューバンド、ピーター・ゴールウェイ……。こういう世界ができる人なのだから。このアルバムの後半を聴いて、思わず山下達郎のファーストのA面を聴きたくなった」

司会者「「クローゼット」は驚きでした。ああいうことをやってサブカルというかポストモダン的なニヤニヤ感がでないのがスゴイ」

kenzee「ウン、あれをピチカートとかがやるとちょっとイヤらしい感じになるはずなのだ。おsれがaikoがやると本物感がでる。これは「傷跡」でも感じたことだ。とにかくボクは「傷跡」とか「クローゼット」のようなニューヨーク感が今後、どう成長するのかを見届けるためにこの企画を続けるだろう。もう、ギターはオナカいっぱい。というわけで次回は「暁のラブレター」だ。今回「マント」で苦戦した16ビートの扱いに「アンドロメダ」で爽快に決着をつけたりなど聴きどころがある。それにしても、みんな結婚したり子供産んだり、家建てたりしているが、それでもボクはマラソンを続けるのだった。」


aiko少林寺木人拳 Part.6 (5thアルバム「暁のラブレター」前編)

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これまでのあらすじ

話の流れでaikoの悪口言う。(「ボーイフレンド」のテトラポットってフニャチンのメタファーでしょ?)したらaikoファンより苦言が。(アンタaikoさんの音楽のなにを知ってるっていうんだ!)よく考えたら「花火」と「ボーイフレンド」を飲み屋とかコンビニで聞いたことある程度だった。ホント、aikoファンのみんな、ゴメンね。そこでaikoアルバム全曲聴き会を催すこととなった。オリジナルアルバム10枚のうち、とりあえず今、4枚目まで来た。あと6枚。長い旅だ……。ところで…。

kenzee「あと6枚か……」

司会者「まだ半分もいってないよ」

kenzee「こんなことになると思ってなかったのだ。このブログは新しい記事をアップすると2000~3000アクセスぐらいいく、まあまあのブログなのだ。aiko篇になっても基本、そのぐらいだ。で、aikoファンの方が結構な数、流入しているのもリンク元でわかる。そこで、ボクはこう予想を立てたのだった。ウチのブログの性質上、aikoの音楽について批判的になる時もあるだろう。また、場合によっては身体的な特徴についてあげつらう、といった記述もでてくるはずだ。フダンの読者なら「またか」と静観するところだが、新規の方は驚くはずなのだ。つまり、炎上すると思っていた。なにしろ特定のアーティストの身体的特徴を、「貧乳歌手」などと揶揄するなどネットの顕名メディアでは許されない行為なのだ。で、適当に炎上したところで「ウワーン、もうやめます」と逃亡、というのも手だと考えていた。たとえば前回の記事なら「前半のギターサウンドはまったく楽しめない」など独断的な批判、もちろん身体的特徴についての記述もある。そしていつもどおりのアクセス数。これはもうこのへんでアウトかな~などと考えていた。ところが!」

司会者「そんなセコイこと考えてたのか」

kenzee「炎上どころか、暖かく見守るようなコメントばかり! またツイッターにおいてもこの一週間で「コイツムカツク」などといったRTなどボクは一件も発見することはできなかった。つまり、

         aikoファンどんだけネットのリテラシー高いねん

ボクはaikoの受容とはロック業界においても比較的アイドル的な受容なのではないかと考えていた。つまり、他のアーティストと比べてもリテラシー低めなのではないかと考えていたのだ。ところが一人の荒らしも発生せず、静観しているではないか。これはスゴイことですよ! こんなこと途中で言うことじゃないが、まず、aikoファンのみなさんにはそのリテラシーの高さに最大限の敬意を表したい」

司会者「そんなん言うて、ホントは放り出す気なんてないんでしょ?」

kenzee「と、思ってるかもしれないが、小沢健二さんの時はホントに放り出したった。だって、わらわらアホが湧いてくるんだもん。イヤ、小沢さんは優れたミュージシャンですよ。でも、あんな賢いアーティストんとこがあんな程度低いとは思わなかったな。それで途中で放り出したからね。そんな経緯もあって、小沢さんとこよりファンの年齢層が低いaikoはガチだと考えていた。ところがシーンと黙って聞いてくれてるからね。ボクはaikoのライブに行ってみたくなったよ。それはaikoファンが作る空気に触れてみたいからだ。ア、もちろんaikoさんの歌も聴いてみたいけどね。だが、それ以上にファンの濃厚な空間に身を置いてみたいのだ」

司会者「どうもaikoライブは客いじりとか客とのコミュニケーションが多いらしいですからね」

kenzee「普通は面倒を誘発しがちなので極力客いじりはしない。これはベテランアーティストであればなおさらだ。たとえば山下達郎さんクラスの大御所でもヒドイ目に遭うことがあるという。前回のツアー(つまり最近の話だ)は1曲目が達郎のカウント「ワン、ツー、スリー、フォー」でスタートする曲なのだが、もちろん暗闇でスタートするワケだ。で、リピーターの調子乗りが客席からバンドに向かってカウントを叫んだというのである。こうなると最早、営業妨害であり、罰金とってもいいと思うのだがどうか。達郎クラスでもこんなことが起こる。私が行った去年の大阪公演(グランキューブ大阪1日目)でもMCの途中でステージによじ登って紙袋を渡そうとするオバハンがいたのである。もちろんすぐ警備員が取り押さえたが。(ちなみにその時達郎氏はステージによじ登ろうとするキチガイに向かって「オヤオヤ、今日は夜逃げですか?」とシレーっと袋を受け取ったのだ。まったく動じることがなかった)だが、aikoライブにおいてこのような事象はあるだろうか。頻繁に起こるようならさすがに客いじりはできないと思うのだ」

司会者「でも、ヨイショしてもマラソンは走っていただきます」

Aiko10

5thアルバム。2003年11月27日にリリースされた。前回の記事における774さんのコメントによれば「夏服」ツアー以降いろんなトラブルに見舞われ、前作「秋 そばにいるよ」発表時はかなり追い込まれた状態だったという。そういえばボクは当時、ロキノンジャパンのインタビューでそんな記事を読んだ気がする。なんか声帯の手術をして声をもうだせないかもしれない。もう音楽活動はムリかも…みたいな話と「もうまわりの大人とか信用ならない!」みたいな怒りのインタビューだったと記憶している。昔のロキノン記事ぐらいいつもなら国会図書館で調べるのだが、今回は「音だけに集中するレビュー」なのであえて触れない。マラソン完走したあとに答え合わせ的に昔の雑誌のインタビュー記事とか漁ってもいいかもしれない。じつは新聞記事は図書館の新聞記事データベースで一通り調べた。したら、ほとんどが紅白出場の記事ばかりヒットするのだが中にはaikoのコンサートグッズを事務所から独占的に請け負っていた会社が脱税していた、とか(aikoさんコンサートグッズ独占受注 2社 4800万円脱税容疑 国税告発(読売新聞2012年4月24日夕刊))aikoと哀川翔がクルマで接触事故とか、(哀川翔さんとaikoさん、車運転中に接触事故 東京目黒区内(朝日新聞2009年10月9日夕刊)などといったトホホ記事がひっかかるのだ。意外と受難の人生である。やっぱり調べなきゃよかった。音だけ聴くようにします。このアルバムはCCCDで発売された。現在、中古市場でもっとも出回っているアルバムだろう。ボクもこのCDだけブックオフで500円だったので買いました。

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今、CCCDを手元に持っている人が何人いるだろう。上記の注意書きもちょっと懐かしい。さまざまなトラブルを乗り越え、1年3ヶ月ぶりにリリースされたアルバムだが、充実した内容だ。

・1曲目「熱」

kenzee「ポール・マッカートニー風、あるいは70年代のザ・フーのような、後半グワーっと盛り上がる、要はブリティッシュロック。小品ながら曇り空度は高い。クレジットによればイントロのくぐもったピアノはローゼンクランツ・ドレスデンで戦前のドイツ製のピアノである。なんでまたこんなピアノが登場するのか。島田さんが買った? しかしロックやジャズでそうそう使用する機会もなさそうだが。クレジットによれば「天の川」でも使用しているようだ。島田さんが自費で購入し、aikoがそれ用に曲を作ったのか。弾き語り曲用に購入したのか。いずれにしてもローゼンクランツではロックのアンサンブルに埋もれてしまうだろう。確かに独特の沈んだ音色は魅力的だが。

・2曲目「彼の落書き」

kenzee「サイモンとガーファンクルか、というイントロに続いて8ビートが始まる。「愛の病」タイプのシンプルな5リズム。この手の曲のときオナジミの「アナタが好きで好きでどうしようもない、どうにかしてちょうだい」ソングである。aiko曲のパターンがそろそろ出揃ったと思うのだが大体、似たようなタイプの曲に似たような歌詞が乗るのだ。やはり詞と曲がひとかたまりということか。後半半音転調する。意外とこういう順当な転調をaikoで初めて聴いた気がする」

・3曲目「アンドロメダ」

kenzee「「花火」以来のaiko必殺の16ビート話法曲である。aikoの16ビート曲といえば佐野康夫ドラム佐藤マルコシアスバンプ研二ベースのコンビ以外考えられない。そしてこの手の曲におけるaikoの詩作は彼女以外誰もマネできないものだ。無論、16ビートを歌うR&B歌手などいくらでもいる。だが、基本、日本のR&B16ビートの歌詞は山下達郎以来の「文字少なめ」で対処することが多い。「RIDE ON TIME」を想起していただければわかりやすいだろう。日本の16ビートシンガー、たとえば米米クラブとかシングライクトーキングとかジャンクフジヤマとかを思い出してみるとわかるが基本、山下解釈の16ビート処理を手本としている。しかし、aikoの16ビート解釈はまったくそれらのJ-POP史と断絶している。彼女は16ビートに16文字叩き込まないと気がすまないのだ。「交差点で君が立っていても もう今は見つけられないかもしれない 君の優しい流れる茶色い髪にも 気づかないほど涙にかすんでさらに」というサビ。この文字量がたった8小節のなかに押し込められていると信じられるか。これはいくつかあるaiko表現の完成形のひとつである。恋愛感情がやがて薄れる。自分でもどうすることもできない変化に懺悔を求めるべく激白する、というスタイル。これは彼女だけの芸であり、手法をマネする、とかいう性質のものではない。ギターがアコギのみで他の楽器とぶつからないのも正解だ。ここにいつものディストーションギターが入ると多弁になりすぎるだろう。ベース、アコギ、ピアノだけの3ピースのような小編成でも十分に迫力がでるはずだ。そんなときはどうか、同期モノは外していただきたい。人間のマニュアルプレイのビートでこの歌詞が乗ればスゴイことになるだろう。後半ブレイクする部分で歌だけのアカペラで「交差点で…」とやったら! ムリクリ文句をつけるなら鈴などのパーカッション類が同期のようなのだが、人間のビートだったら…贅沢な注文だ」

・4曲目「ふれていたい」

kenzee「半音進行でゆるやかに動く8ビートのバラード。ベタな8ビートだが、ドラムは佐野康夫さん。ボクの耳には佐野さんのドラムはジャジーなのだがみなさんはどうだろう。包容力のあるドラムというか。ボクは割と重いドラムが好きなのだが。でも、aikoの曲が割とマイナー曲が多くて、ドローっとした曲調が多いのにトータルで明るい印象を受けるのは佐野さんのドラムの要素が大きいと思うな。フロントで歌手がワーッと泣き叫んでてもドラムが常に優しく支えているというか。でもこれが男性歌手だとトゥーマッチになっちゃうと思うんだナ」

・5曲目「夢のダンス」

kenzee「4管のホーンセクションがにぎやかな西海岸風AOR。この曲に限らないのだが、これが2003年に発表されていることの不思議。そして10代や20代の若い世代に支持されているこの不思議。普通に金子マリとか吉田美奈子とか70年代のR&Bシンガーが昔を懐かしんでセッションしましたみたいなサウンドなのだがやっているのは1975年生まれの大阪人なのだ。aikoの音楽史は本当に不思議だ。60年代のポップスがある。70年代のフィリーソウル、AORがある。そこでスパっと止まってしまうのだ。せいぜい77年ごろのパンクでこの人の音楽史は終わるのである。どんなリスナー人生なのか。60年代を高校生で過ごし、70年前後を学生運動で暴れ、77年頃に逮捕されて音楽を聴かなくなった過激派みたいなリスナー人生である。つまり、自分の生まれた頃ぐらいまでの音楽にしか興味がないのだ。こういう人がデビュー当時のR&B、ヒップホップブームをどう見ていたのか聞いてみたい。ついでに、前回の記事のコメントで「相合傘」問題というのがあったが、おそらくしんごさんの言うように当初は8ビートをイメージして作られたものの、「花火」カップリング収録時にはバラード版が採用された、というのが事実だろう。「花火」時のスタッフの判断は順当なものだ。「花火」があれほどインパクトのある曲なのだからさらに「汗かきMix」が続けばトゥーマッチだと考えたのだろう。ボクが不思議なのは「汗かきMix」は今のところ唯一80年代イディオムで作られているということだ。aikoの中に80年代があったことに驚く。80年代という曖昧な言い方ではわかりにくいだろう。正確を期すならばaikoの背景には「岡崎京子的ななにか」がスッポリと存在しないのである。これほど実験的、音楽的なミュージシャンにも関わらず、故・川勝正幸さんの琴線に触れる要素が皆無なのだ。はっぴいえんど以降の文脈で川勝的、宝島的な文化から逃れ得たのはボクの知る限りaiko一人だけだ。つまり、どこまで行っても彼女はヤンキーなのだ。金の斧、銀の斧の童話に例えるなら、「aikoよ、おまえの落としたのはこの「岡崎京子のマンガ」か、それとも「ケータイ小説」かと神様に問われれば彼女は岡崎など見向きもせず、ケータイ小説を選択するような気がするのだ。これは非常に重要な論点だ。彼女がなんの迷いもなく、岡崎を選ぶようなメンタリティの人間であったなら、アーティストとしてここまでの長命は保っていなかったと思うのだ」

・6曲目「蝶々結び」

kenzee「って言った舌の根も乾かぬ内に、といったパーソネルである。ドラム、元オリジナル・ラヴ宮田繁男、ベース元ジューシィフルーツ、ビブラストーンを経てピチカート・ファイヴのセッションなどにも参加の沖山優司ってソレ川勝、宝島っぽいメンツやガナ。確かに「EYES」の頃のオリジナル・ラヴを彷彿とさせるドラムですよ。こう、クネクネした感じのドラムなんですよね。スカパラの故・青木達之さんのドラムが機械みたいに正確なビートで小沢健二さんのヒット曲のほとんどを青木さんが叩いているのだが、宮田さんは人間以外の何者でもないドラム。2003年の曲なのにコレだけ、1993年の音楽みたいに聞こえるんですよ。なにワケワカランこと言うてるんでしょうね、ボク。狩野良昭さんのギターも渋谷系を意識してかワウギターをギュワギュワやってますヨ。しかし、aikoの話なんにもしてないナ。ボクはaikoが宮田さんとか沖山さんの音楽通ってないような気がする。普通、1975年生まれなら通るんですけどね。でも、お互い75年ごろの音楽やってる人、という共通項で不思議と息のあったセッションになった。この曲はコーディネーターの勝利であろう」

司会者「長くなってきたので前編、後編にわけたいと思います」

kenzee「充実した内容である証拠ですよ。とにかく前半は「アンドロメダ」1曲が重心、だな。ホント、3ピースのアコースティックバージョンを検討して欲しいよ」

aikoマラソンこ、コレでまだ、半分なのか…Part.7(5thアルバム「暁のラブレター」後編)

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kenzee「明日(2月12日)発売のQuick Japan Vol.106のコラムページに相変わらずわたしの拙文を載せていただき恐縮です」

司会者「いつもお世話になっております、って急に改まってどうしたの?」

kenzee「旧年中はウンコとかチンコの話ばかりでしたので今年はちゃんと音楽の話をしようと、年明けより、話題沸騰だったtofubeatsの新曲、「夢の中まで」をレビューさせていただいた。でまあ、tofubeatsといえば去年、「水星」がヒットしたわけですけども、彼の曲は昔のテイトーワだったり、新曲は戦メリ期の教授っぽかったり「自分の生まれた頃、か生まれる数年前」の音楽を基調としているのですよ。これがももクロとか9nineとかlyrical schoolとかのリミックスワークスとなるとまったく今風の子になるのだが。でまあ、懐かしい感じがするんですな」

司会者「あの人が音楽始めた思春期にはもう、ボカロシーンとか形成されてたわけですよね」

kenzee「でね、生まれた頃の音楽に向かうタイプのミュージシャンっていう人種がいるんですよ。たとえば山下達郎さん。ライフワークとしてひたすら一人アカペラのドゥーワップを続けているけどアレ、50年代の音楽なわけですよ。で、この2月で達郎さんも還暦を迎えたのですよ。また、68年生まれの小沢健二さんの「LIFE」というアルバムですが、70年前後のモータウンとかフィリーソウルの世界なのです。生まれた頃の音楽なのです。もっと露骨なケースもある。KREVAは1976年生まれなのだが彼のユニット、By Far The Dopest「それがどうした!」はサンプリングソースがすべて76年発表のソウルやファンクなのだ。かくいうボクもソウルミュージックが好きなのだがやっぱり当たり年は1970年から1974年までで、この辺で黒人ジャケだったら試聴しなくても9割当たりだという確信がある。そこでaikoなのだが彼女の音楽もまた、「生まれた頃の音楽」なのだ。aikoの世界とは平たくいえば1975年前後のAORなのだ。ここに音楽的重心がある。ここからギリギリ近過去の68年ぐらいまでは行くが、たとえば60年代前半のポップス、フィル・スペクターみたいなとこには行かない。あれほどユーミンさんが好きなら「ルージュの伝言」的なアメリカン・グラフィティ的なポップスに行ってもおかしくないが、それはないのだ」

司会者「生まれた頃の音楽にはなにかがあるんですかねえ」

kenzee「中田ヤスタカはYMO全盛期の1980年生まれなのだ。椎名林檎は1978年、まさにクラッシュやピストルズの時代にオギャーと生まれた。不思議な感じがするでしょ? 小西康陽さんが言ってたのは「ボクは新しい音を探してるんじゃなくて、かつてどこかで聴いた音を探してるんだよね」ということで、もしかするとみんなお腹のなかで聴いてた音楽を探してるのかな? 小西さんも50年代のラウンジミュージックみたいな方向に行ったよね。生まれた時代に。ホンット不思議だねえ」

司会者「そんな、フツーのつぶやきブログみたいな終わり方でシレーっと逃げてもダメですよ。マラソンは走っていただきます。前回の続き。「暁のラブレター」7曲目から」

Aiko11

これが初回ジャケなのかな?


・7曲目「ライン」

kenzee「ビートルズ「Revolution」(シングルヴァージョン)のイントロで始まる、ストレートなブリティッシュ・ビート。AメロのB→EonB→GonB→F#というベースがステイしたままギターはいわゆるFのコードフォームのままスライドするだけというギターっぽい作りの曲。aikoよ、ようやくわかってくれた?ギターってものを!と手を叩きたくなる1曲。そうなんだ、ギター、とくにジャカジャーンっと鳴らすサイドギターはこういうビシっと響くメジャーコードで突っ走るとストーンズみたいになるだろう? あなたの好きな奥田民生さんなんかもっとスゴイよ。ユニコーンでサビに突入するまでワン・コード「G」のみっていう「働く男」という曲があるんだ。モチロンシングル曲だよ。あと、ユニコーン後期の曲で「ターボ意味なし」っていう曲はひたすらツーコードなんだ。このようにギターっていう楽器はね、シンプルなコードのなかでリフのカッコよさで引っ張るのが醍醐味なんだ。やっとわかってくれたか、と安心するのも束の間、ラスト「あたしが変わってしまったの?」のところでシッカリ

A♭m7-5→D♭7→F#m7→Bm7→Em7→E♭M7→DM7と変態進行+ムチャな転調してます。ううん、キミの変態性はなにも変わってないよ」

・8曲目「帽子と水着と水平線」

kenzee「「傷跡」以来連綿と続くギターレスのピアノトリオ・ロック。この路線はボク大好きですよ。この神経質なベン・フォールズ・ファイヴみたいな世界。イントロでチャカポコ言ってるのは往年の名機Roland TR-808だろう。YMOのファーストなどでもオナジミの名機だ。ユニコーンセカンド「Panic Attack」収録の「人生は上々だ」でもチャカポコとビートを打っている。それにしても島田さんのロック・ピアノ(これが音源モジュールではない、生ピアノで、生とチャカポコとの対比が狙いであろう)と佐藤研二さんのうねるベースのコンビは「花火」「アンドロメダ」で保証済みである。間奏のピアノソロとaikoのフェイクがバトルになるところはこのアルバムでも有数の聴きどころである。これがライブだとどうなるのか。一見、素直な曲作りだが、譲れないポイントがある。サビのCM7→B7→Emに向かう直前の「D+5」。ボクこれ個人的に「どんなときも。ドミナント」と呼んでいるが、この教授っぽい浮遊感があるかないかで全体の雰囲気が全然変わってきてしまいます。ホンット、エンエンこういうベン・フォールズ・タイプのピアノ・ロックばっかりやっててくれたらムチャクチャかっこいいのにギターをやりたがるんだよなあ、この人。それもジェームス・テイラーみたいなことだったら100歩譲って納得だが、ラウドロックをやろうとするからね」

・9曲目「すべての夜」

kenzee「これもaiko得意のワルツ曲。ワルツの曲、最近ないねえ。たとえば夏フェスみたいなトコで急にこういうビートの曲やったらみんなどうやってノルんだろうねえ。つくづくライブ向けじゃないねえ。このアルバム」

・10曲目「えりあし」

kenzee「アルバム後半になると待ってましたとばかりに登場するaiko得意の大バラード。68年頃のポールのごときメロトロンとジョージっぽい細い弦のギターがストロベリー・フィールズ感。遠く離れてゆく恋人に前向きな別れを告げる歌…。5年後、成長した自分はあなたに背筋を伸ばして声をかけるだろう、と……」

司会者「アレ、アンタまさか…。ネタぎれになってないか! まだ半分も行ってないんだぞ!」

kenzee「ちょっと待ってクダサイヨ~。コレ、aikoって、菊池成孔さんも言うように基本、同じ音楽なんですよ! 無論、ホンモノの表現者だからこそ同じなのだ。たぶん、この調子であと5枚アルバムを重ねるのだろう。まだちゃんと聴いてないけど。もう大概イチャモンつけたからなあ。この先、音頭とかドラムンベースとかでてこないとつらいぞコレ」

司会者「って2013年にドラムンベースて」

kenzee「どうしよう。大体一通りの曲のパターンは出尽くしたと思うのよ。この先ラップでもしてくれるとかでない限り。イチャモンのパターンも一通りでたしなあ。で、歌詞にどうこう言ってもしょうがないタイプの作家だしねえ。ていうかねえ!「えりあし」みたいなフツーにデキのいいバラードを前にしてなにを言えというのよ!」

司会者「アンタが始めたんだろう」

kenzee「これがコーネリアスとか細野さんみたいなゴロゴロ音楽性自体変わっていくタイプのミュージシャンだったら書くほうもやりやすいんだろうなあ。これや! これが音楽ジャーナリズムの問題点や!」

司会者「話をデカクしてごまかそうとしているネ」

kenzee「「えりあし」なあ。まあ、いろんな角度からいけますよ、えりあしのある男ってどうやねん、とか。「あなたの背中が遠ざかり」その後ろ姿はやっぱりミキハウスだったのかナ、とかオチョクろうと思えばできるんですよ! でもねえ、フツーにいい曲を前にしてそのレベルのチャチャ入れるのもねえ。2チャンネラーレベルじゃないスか。ア、でもこの曲で言えることってやっぱりその、エリアシのある男問題をどうとらえるか、とかありますよ。やっぱねえ、aikoの音楽ってそこはかとなくドンキ感がずーっと漂ってるんですよ。こんな一流ミュージシャンを贅沢に使ってストリングスとかも生ですよ。でも、深夜0時のローソンの駐車場に停まってるワゴンRかステップワゴンとスウェットとクロックスとブサイクな嫁とガキンチョ(えりあし長い)みたいな風景と切っても切れないのですよ。aiko世界とは。不思議だ。だって、若くしてとっくにひと財産築いてるはずじゃないですか。aikoって。この人クルマってなに乗ってるんやろう。哀川翔とぶつかった時とか。やっぱりセルシオとかグロリアとかマジェスタとかVIP車ってヤツですかい? ウン、ファースト、セカンドと何が違うんだろうと考えたら、セカンドぐらいまでってまだ電車のなかでウォークマンで音楽聴いてる感じがするんですね。でもこのアルバムぐらいになるとセルシオでマッキントッシュとか高級オーディオシステムで音楽聴いてそうな感じがするんですよ。無論、素敵なことです。でも、どんな成功をおさめても、地位や名誉を得ても、VIP車を数台所有していようとも、彼女の心の中には中古のワゴンRがいつまでも追いかけてくるのだった。ドンキが追いかけてくるのだった」

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(コレがセルシオの内装。こんな高級感溢れる車内で民生やKANを爆音で聴くのか?)


司会者「これが「妄想逃げ」の術ナリ」

kenzee「まあ、妄想もじき、ネタ尽きるけどネ」

・11曲目「白い服黒い服」

kenzee「前作収録「クローゼット」のような東海岸風ジャグ・バンド曲。ホンット、オシャレな曲書くよね~。ユーミンさんも荒井由実時代に「チャイニーズ・スープ」というジャグ風の曲があったよね」

司会者「だんだん面倒くさそうになってきてるぞ」

kenzee「75年にはこの手の曲作るひとはユーミンさんのような裕福な家庭の子女しかいなかったわけだけど30年近くを経て、ドンキの子もつくるようになりましたヨ~」

司会者「マジメにやれ」

kenzee「つくづくティンパンの文脈の人なのだ。土岐麻子さんみたいな人がこういう曲やるんだったらわかるけど、でも土岐さんはワゴンRには乗らないからなあ」

・12曲目「風招き」

kenzee「「飛行機」タイプのアンサンブル。ギター×2とストリングスという。サビ頭の曲は珍しい。「満月なオレンジ」以来ぐらいじゃないか。曲はなんか、5分ぐらいで作ったみたいなギターロック。メジャーセブンスのディストーションギターもねえ、バンプかaikoぐらいじゃないスか。ウン」

司会者「完全にこの手の曲、興味ないな」

・13曲目「天の川」

kenzee「再び「熱」で登場したローゼンクランツのイントロで始まる。音源モジュールのピアノに慣れた耳で聞くと「ピアノとはこんなにノイジーな楽器だったか」と気づかされる。ワルツのバラード。キャロル・キングかバリー・マンといった作家の名が思い浮かぶニューヨーク風、都市の孤独と繋がりについての歌。ボク、このアンサンブルはトゥーマッチだったと思うな。アコギいらないし、ドラムもいらない。それこそ808みたいなリズムマシーンでもいいよ。ただし、ストリングスはこのままいてもらう。結局、ローゼンクランツみたいな繊細な楽器とぶつかってるとおもうのよね。ドラムって結構いなくても成立するんだ、とは「FOREVER MINE」発表時の山下達郎さんの弁」

・アルバムトータルの感想

kenzee「アノ、正直、長いワ! この頃からJ-POPのアルバムの曲数がウナギ登りに増えていくのだった。コレ、ギッシリ13曲だからねえ。ヒップホップで言うところのスキットみたいな曲で数稼いでないから。つまり、これぐらい引き出しのあるアーティストじゃないともうアルバムだせない時代がきたのだ。昔なんて8曲とかでアルバムだったのにね。初期のビートルズなんてA面B面4曲ずつでしかも片面カヴァー集とかなんだから。ホントに全部自作曲でないとイカンのかね。そらそのほうが印税とか原盤権とかオイシイのはわかるけど、レコードってもっとノンビリとしたものであってほしいんだな、ボクは。だが、充実したアルバムだった。後半は「帽子と水着と水平線」のバトル、「えりあし」「天の川」のバラードがハイライトだったね。トータル的には内省的な世界だった。「ジェット」や「be master of life」のようなライブ向け鉄板曲はないけども、10年前のアルバムとは思えない、普遍性がある。そしてネタ切れになるどころか、どんどん新しい世界を切り開いてゆくたくましさがある。たとえばファーストの時に自分が将来「アンドロメダ」のような曲を書くことになると思っていただろうか。歌詞においてはいつもの恋愛ソングではあるのだが「孤独を引き受けよう」というような少女少女ではない決意がみられる。ソラ、セルシオ一人で運転してたらそんな心境にもなるだろう。セルシオを引き換えになにを失っただろう、といったことも考えていたころなのかも知れない。ていうかセルシオなんか乗ってないかも知れないが。ただ、コレはちょっと制作体制がギチギチのような気もする。こんだけヴォリュームのあるアルバム作ってツアーやって毎年それ繰り返してたら、ヒモノになってしまいまっせ!と言いたくなるが、ホントにこの人やってきたんだよなあ。というわけで次回は6thアルバム「夢の中のまっすぐな道」。ふたたび地味な作品との噂。しかしあんまり地味だとどうイチャモンつけていけばいいのか」

困った時はロキノンおじさんに頼るのよJ( ー`)し(aiko6thアルバム「夢の中のまっすぐな道」前編)

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司会者「kenzeeから重大なお知らせがあります」

kenzee「aikoマラソンも折り返し地点を迎えました。あと60曲ぐらい残ってるワケですが、今までのように「ギターがどうした、ミックスがドウタラ」といったチャチャいれも一通りやってしまいました。今後もこの調子で走ることは技術的に可能は可能ですが、読み物としてソレ、マンネリじゃね? という疑問は自分の中にぬぐい難くあります。そこで、禁じ手に手を出すことにしました」

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司会者「コ、コレは……」

kenzee「昔のロキノンジャパンのaikoインタビュー一気だ。国会図書館の複写サービスにて、とりあえず手に入るヤツ、ボンと注文した」

司会者「NDL-OPACってヤツだネ。ところでフトンの上に拡げるのヤメロ。オッサンの寝床とか世界に公開するな」

kenzee「中にはこういう読者もいるだろう、「アレ? コイツロキノン批判じゃなかったっけ? ロキノン的人生論がイヤでこういうことやってるんじゃなかったっけ?と。しかし、このままでは間が持たないのだ。こんな時は素直にロキノンに頼るのも手だ」

司会者「なかなか就職決まらない就活生が最後の一手で「建設会社社長の親戚のおじさん」に頼る、みたいな話だな」

kenzee「困った時はロキノンおじさんに頼るのだ。今回入手したのは、

・Rockin' on Japan2001年7月号aikoインタビュー「夏服」1年4ヶ月ぶり登場 裸のソウルを綴った珠玉の新作

・同2002年5月号。aikoインタビュー「あなたと握手」今、再び歓喜の季節へ。新曲「あなたと握手」

・同2002年9月号。浴衣姿で艶やかに初表紙&巻頭。ニューアルバム「秋 そばにいるよ」

こんなところだ。以前、わんこそばのときに774さんに教えていただいたノドのトラブルで休業を余儀なくされた話。昔に読んだ記憶があるが、それは「あなたと握手」の時のものだった。

JAPANが彼女にインタビューさせてもらうのは3枚目のアルバム、「夏服」のとき以来の10ヶ月ぶり。その後の昨年(2001年)7月、彼女は声帯結節急性咽喉気管炎という、いわゆるポリープのためにツアーを一時中断するという出来事もあった。(Rockin' on Japan2002年5月号、上野三樹によるリード文)

この時のインタビューのaiko発言をまとめるとこうなる。「最初は全然気付かなかった。耳鼻科に行って、「喋ってはダメ。筆談しろ」とまで言われていたが、治ったように思ったのでフツーに仕事してた。そのうちまったく声がでなくなった。アレ? とか言ってた頃には、まわりは淡々とツアーに向けて準備が進んでいて、移動トラックのデザインとかパンフレットとか衣装とかできてるのに「ワタシ、声デナイ」という状況に。無論、ツアーも含め、仕事は無期限延期となる。この時、aikoは相当に落ち込んだようだ。「大阪へ帰ろうか、なにもしてないのに東京にマンション借りて住んでてもしょうがないし。というかこの頃の記憶があまりない。そして耳鼻科に通院してるうちに完治し、思いっきり歌っていいですよと医者に言われた。歌うことがこんなにありがたいことだったと思い知った。なのでタバコはやめた。ライブ終わったあとにタバコバーって吸って、テキーラ飲んで「オツカレー」とかそんなんやってたらアカンのかもしれん。歌うことをなにより優先しないと、と悟った」ということだ。確かにポリープ後の「秋そば」以降、歌詞にシリアスな表現が増えてきた気はしていた。つまり、この時、aikoは歌手人生のまさに生死の境目をさまよっていたのだ。セカンド、サードまでが「若い女子の恋愛と生活の意見」ぐらいのカジュアルな表現だったものが4枚目から死に際のごとき気迫を漂わせるのはこういう背景にあった。たしかに「あなたと握手」には異常な気迫が漲っていたのだ。この経験はのちの作品にも影響を与えていく。「秋」「暁」を経て2005年3月に発表された「夢の中のまっすぐな道」にもそれはハッキリ表れていて、この後のアルバムはすべてが(歌手生命における)遺言のように響くのだ。ちなみにこのようなロングインタビューは「秋そば」以降、見られなくなる。てっきりロキノンと折り合いが悪くなったのかと思いきや、他の雑誌記事もインタビューが突然減っていくのだ。変わってヒット(CDのヒットじゃなくて図書館の雑誌記事データベースの検索にね)するのは音楽ライターによる評論文のようなものだ。やはり2002年あたりを契機に心境の変化があったのかもしれない。

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ジャケも初期の3枚のような「キャー(≧∇≦)aikoカワイイ!」みたいなトーンではない。音楽はポップでありながら常に死の影が通奏低音のように響いてくる。話を急に戻すが、この企画(aikoマラソン)の発端、転校生(という死にかけ人形みたいな女の子のソロユニット)が、ナゼaikoみたいな元気そうな音楽を好むのか不思議だったのだが、この死の影を読み取っていたのかもしれない。「aikoさんの音楽は他のJ-POPとは違う」という転校生の発言にはこういう意味があったのか。それでは1曲目からいこう。

司会者「アレ? ボケないの?」

kenzee「こういう経緯を知った以上、「アレ、なんか暗いアルバムキター━(゚∀゚)━!! どうしたのかナ、あんなブカブカのオーバーオールでピョンピョン飛び跳ねてた女の子が急にマジメになっちゃって。更年期障害?(プッ)」などとは口が裂けても言えない。むしろ、(自称)文芸評論家のボキがこういうアルバムをちゃんと評論しないワケにはいかないのだ」

司会者「フ~ン(鼻くそをほじりながら)」

・1曲目「青い光」

kenzee「静かに、しかし力強いアルバムのオープニングを飾るバラード。もう、初期のようにド頭からディストーションギターとストリングスでカマすような仕掛けはない。また、歌詞においても「愛の病」のように恋愛を前に自信を見失うような心情とは遠く、この関係を静かに見守る優しい視線がある。特に印象に残るのは「空を見たのは別に初めての訳じゃないのに 何故だかいつも以上に綺麗で 儚く」「どうか明日も ちゃんと笑っててほしい それが最後であっても」というフレーズ。まるで死期を悟った老人のような心境。このような描写を目にして、文芸評論家ならやはり梶井基次郎を想起せずにいられない。梶井といえば「ハ~ア~オレって不治の病に冒されちゃってるんだよナ~。で京都の寺町あたりをブラブラしてましたら果物屋があったのでレモン買いました。ウン、このレモンはなんと生命力に溢れているのだ! で、また歩いてましたら本屋の丸善があったのでその店先の平積みの本の上に置いてきてやりましたよ。アレが爆弾だったら(妄想)ウッシッシ」という「檸檬」がもっとも有名だが、梶井が生涯、同人作家であり、肺結核を患い、死を目前にしながら、数少ない短編を著していたとはあまり知られていない。梶井の短編に登場する風景や人物とはただの日常であるが、「もう二度とこの世で出会えるかわからない」ものだったのだ。梶井が残したのは短編ばかりだがそのほとんどは描写に費やされる。そのすべてが死ぬ間際の風景だ。また、この曲を前にして庄野潤三など第三の新人の作家たちを想起する者もいるだろう。庄野の「夕べの雲」の主人公のサラリーマンの男は丘の上に新しい家を建てる。そして家の団欒を静かに支えようと生きる。そして丁寧に日常が描かれる。「ナニ、その退屈な平和小説」と思う者もいるだろう。しかしこの作品が発表された1965年とは未だ作者にも読者にも戦争の記憶が新しい時期であった。ここに描かれた平和や団欒が、血の歴史の上に築かれたものであり、いつ、崩壊するやもしれぬもの、と誰もが了解していた。「平凡な現実を淡々とながめて、そこにちゃんと地獄を発見している」と三島由紀夫は評した。この三島の評をそっくり「青い光」への賛辞にかえさせていただきたい。当たり前の空が特別なものに見える、これが最後であっても笑っていてほしい、とはまさに庄野や梶井の見た「風景」であろう。これ以降、aikoは平凡な恋愛の風景に、たかだかポップミュージックに、とてつもない意味を与えていくことになる。「突き抜けるほど晴れた日」にといった何気ない言葉に大いなる意味を与える作家となってゆく」

・2曲目「恋人同士」

kenzee「いつもならアルバム後半に登場しそうなジャズワルツの小品。作品を重ねるごとにヘンテココード進行や奇矯なメロディーが影を潜め、順当なポップになっていってるのだが、この曲で聞き逃せないのが「お願いあたしを 他の子と一緒に束ねたりしないで」の「しないで」の「でー」がメロディーの束縛から離れ、一瞬、宙ぶらりん状態になることろだ。つまり、「歌唱」という芝居から一歩、抜け出し、話しかけるようなトーンになる。こういうメロディーの処理にブチあたるとモーニング娘。「サマーナイトタウン」を思い出してしまう。「季節を感じてサマーナイト いつも二人でいたいの」「季節を感じて」というところをあえてスコアしておらず、喋るように歌え、と作者が指示した、という逸話。そうするとあんな素人の女の子でもそこに人間性、というか性格のようなものがでるのであった。この「恋人同士」においても「でー」となるのは1秒もない時間なのだが、聴き手はその間に歌い手の性格や感情までも読み取ってしまうのであった。人間の耳ってスゴイね」

・3曲目「エナジー」

kenzee「アレンジャーに吉俣良を迎えた一曲。いつもの8ビート、ギターロックだが、いつもより丁寧なアレンジ。ひたすらジッタリン・ジンのように裏打ちを続けるギター……あんまり必然性ないんじゃないッスかねえ。たぶん作った人(つまりaiko)はスカのイメージなかったと思うし。いつものジャカジャーンでいいと思うよ。いつものギタリスト泣かせの曲。「もっと特別に伝わらないかと」の後ろで「アーアー」と裏メロをコーラス。珍しいですな。そういえば対位法みたいなことって今までやってきてないね。歌と伴奏って思想が根っこにあるんだろうね。だからビートルズなんだな。ビーチボーイズじゃなくて」

・4曲目「明日もいつも通りに」

kenzee「サザンの「栞のテーマ」を想起させるハチロクのバラード。B→Gへとムチャな転調します。ホーンセクション泣かせの1曲。しかし、2005年にハチロク曲つくる人、もうこの人ぐらいであろう。竹内まりやさんですらこの手の曲作らないし。ヤレ、ヒップホップだ、ダンスビートだ言ってるご時世に…これは確信犯であろう。X13Xさんに教えていただいた「暁のラブレター解説映像」だが、2本目にウチ的に重要な話をしていて、要は「急に「打ち込みの音楽やってみました」とかaikoではありえない。そんなムリクリ変えなくてもちゃんと変わっていくから」という発言。でもフツーはアナクロに聞こえるものなんですよ。これが新曲に聞こえるのはひとえに個性的な楽曲とアレンジャーの腕であろう。この「ワンパターンでいいんだ」と「変わっていかないと」という議論は永遠のテーマであろう。ちなみに達郎さんや桑田さんはやっぱり「商業音楽は生き物なんだから」とサウンドはゴロゴロ変化してきた先達である。吉田拓郎ですら自分で打ち込みとかやってた時代があるのだ。ボクはバンドサウンドに飽きないaikoさんがスゴイと思いますね」

司会者「まだ9曲もありますけど、前半ここまでということで」

kenzee「後半は問題作「かばん」からだ。9曲も残して後半てのもオカシナ話だけどね」

aikoマラソンPart.9 今週は「かばん」だけかーい(6thアルバム「夢の中のまっすぐな道」中編)

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司会者「aikoファンの皆様に支えられて走り続けておりますズンドコマラソン」

kenzee「スゴイわ。「インディー盤のGIRLIEも聴いてくださいヨ~」「イヤ、アレヤフオクでも高いし」「ア、ソレ日本橋のK2レコードでレンタルしてるよ」とかどんだけ細かい情報はいってくるねん!という。 大阪を代表するK2RECORDS。関西人の音楽好きにはなくてはならぬレンタル屋である。バンスコのレンタルとかもある。学生の味方やネ。K2のスゴイところは同じタイトルでもリマスター版とかボートラつきみたいな再発がでたら従来版と差し替えを行うところだ。とっくにリマスターがでてるのに20年ぐらい前にでたボロボロの従来版を置き続けるツタヤとは大違いだ。あーそー、K2だとaikoのインディー音源はゲットできる! そうするとあとはシングルのカップリングが残るが、梅田の堂山ツタヤなら高確率で古いシングルも残しているだろう」

司会者「ナニ、細かい算段してるんだよ、後半は9曲あるのでサクサクいこう」

・5曲目「かばん」

kenzee「「夏服」あたりに入っていそうなストロベリーフィールズ的イントロと同期モノの8ビート+ギター、ストリングスという構成の地味なギターロック。これがシングル?という感じ。「この、あなたへの思いは大きなかばんにもこの胸にも入りきらないだろう」という「ア、そういうオチか」とポンと膝を叩きたくなる落語みたいな歌詞。まあ、ウチの読者の方なら、ないんじゃな~い~のコードについての話をするだろうとお思いだろう。いい機会なので「aikoの作曲論をめぐる言説」みたいなもののメタ批評みたいなことをしようと思う。たとえば「かばん」だったら、「ウオー!ないんじゃなーいーでG#→G→F#→F→AonE→D#dim-5→DM7って半音ずつさがるジャン!変わってル~」とか言うことが多いワケだ。確かに順当に考えればF#m→AonE→D#dim-5と動けば済む話のようなところにこういうアヤつけるのがaikoらしいなあとは思いますが、そんなあげつらうほど珍しいモンじゃないですよ。ボクもサンザン、「愛の病」A→G#7→C#mでイントロカマしといてAメロA#dim-5→AM7→G#m7-5→GM7って落とし穴みたいな曲やね~とか言ってたけど、最近聞いた東京女子流の「きっと忘れない」という曲がまさにそういう進行で、まあよくできたエイベックス風アイドルソングなのですよ。

確かに2000年当時のJ-POPシーンの感覚で言えば「愛の病」は一風変わっていたのだが、今はこういうのが普通に職業作家がポコポコ書く時代なのだ。また、この10年ぐらいの間に聴衆の側が複雑な響きに耐えれるようになってきた、とも言えるかもしれない。なにしろたった20年前のバンドブームの頃などC、Am、F、G7の4コードが弾ければもうプロ、という時代だったとことを考えれば隔世の感がある。しかし、「かばん」含め、aikoの曲は奇矯さだけを狙ったコード使いの曲などひとつもないのです。無論、J-POPという狭い範疇においては見かけないな、ということはあっても楽理、というか商業音楽のルールには従順な楽曲たちなのですよ。「aikoはコードが変だ」と言えばいいと思ってる人々は頭を冷やすべきだ。では、aikoの曲作りの特徴とはなにか? その前に商業音楽のルールとはなにか?というところからはじめてみよう。

 ジャズも含めたアメリカの商業音楽っていうものはさ、アメリカ建国時からずっと、音楽を前に進めるためにもっぱら「和声が機能的に連結していく」っていう力を使って作られてきました。まず基本となる、心地よく響くコードを提示して、でその次に微妙な不安定な和音を鳴らして、さらに緊張した響きを鳴らしてちょっとドラマを盛り上げて、で、その緊張を解消させる和音を弾いて終止する、みたいなね。音程の協和度の彩によって安定→不安定→安定というサイクルを作り出して、聴いている人をどんどん先に引っ張っていくっていう曲の作り方。これはさ、バッハ前後にまで帰ることのできる西欧音楽の基本なわけだけど、アメリカのポップスっていうのも基本的にはこうしたやり方で作られていたわけです。(菊地成孔・大谷能生「東京大学のアルバート・アイラー東大ジャズ講義録・歴史編」第5章1959~1962年におけるジャズの変化(1)文春文庫)

Circle4th

上の図は「四度圏表」「Circle of 4th」といって、平均律の12音の音程を完全4度という音の配置で時計回りに配置したものだ。和声の流れを考えるうえでまず頭に入ってないと話にならないという表。この表の動きに従っていればとりあえずポップスらしき曲になる、という虎の巻みたいなものです。ここではめまぐるしく転調する8小節、という例で小沢健二さんの「ローラースケートパーク」という曲を取り上げてみよう。

Em7→A7→D→Dm7→G7→C→Cm7→F7→B♭M7→Bm7onE

「それでーここで君と会うなんて 予想もできないことだった 神様がそばにいるような時間~」というブリッジにあたる箇所のコード進行だが、D→C→B♭→Aと2小節ごとに転調していくというトリッキーなことをやっているのだが、聴感上はなんの違和感もない。それもそのハズで上の表の通りに4度ずつ上がってるからなんですね。となりの4度上へポコポコ上がっているだけ。こういうのは説明がつく。しかし、「かばん」のAメロはGからいきなりB♭へ飛びます。かなり遠い親戚なんですね。aikoのAメロはこのようなポーンと飛んでいって不安定になるものが多い。「木星」のFM7→A♭M7→Am7→D7とか。しかも「木星」コレ、キーがCですから相当な不安定さである。こういったaikoコードの過剰な不安定さもムリクリ説明つけるなら上の表のできるだけ遠いところへ飛んでいこうとしているのではないかという話になる。菊地さんの上記の本にコルトレーンの「Giant Steps」の話がでてくるが、要は「最も気持ち悪い進行とはなにか?」を考えてつくられたのがGiant Stepsだという話。

こういうヘンテコ進行のJ-POPというのはもちろん、aikoだけではない。モダンジャズの世界へ行けばコルトレーンのような変人はゴロゴロいるわけだが、ここではいわゆるJ-POP、J-ROCKに限って話を続ける。ボクはこのJ-POPの歴史でもっともヘンテココード使いで商業的成功を収めたミュージシャンといえばバービーボーイズのイマサを思い出さずにはいられない。「勇み足サミー」とか一聴して変な感じと誰もが思いますよね。

80年代にはギリギリこういう実験精神が生きていたと思うのですが、バンドブームと渋谷系以降、こういう実験性が許されなくなってきたのか、90年代のJ-POPは素直な曲ばかりになる。BOOWYは歌謡曲的だ、という評価が一般的だがそう言う人には、「わがままジュリエット」のオリジナルヴァージョンのシンセリフがひたすら不協和音だということを知っているだろうか。「雲は白リンゴは赤」における「泣ーいーたー」の素っ頓狂なトーンに80年代を想起する者がいるかもしれない。また、「傷跡」の変拍子にあぶらだこを想起する者がいても不思議はない。こういった実験精神は85、6年頃を境にピタっと日本のロック界から消失してしまう。つまり、aikoの不思議なところはサウンドは70年代で止まっているのに、精神は85年の新宿ロフトあたりから輸入してきたようなところにある。ポイントを整理しよう。

・四度圏表の予定調和から逸脱しようとする不安定なコード感覚(イマサ以来の)

・平均律のスケールから逸脱するトーン、メロディ感覚。(ボクは80年代のパンクバンド「バンコ」を思い出すのだった)

・クラブミュージック(つまり4つ打ちとか16ビートの割り切れるビートの流行)の時代をあざ笑うような変拍子の感覚。

こういった感覚とは90年代にはスッポリと抜け落ちたものなんだね。今、当時の渋谷系の音楽を聴いても退屈なのはそういう実験精神の欠けた、保守的な音楽だったからだろうね。90年代以降にも優れたミュージシャンはたくさん現れたがこういうことを意識(aikoの場合無意識かもしれないところがコワイのだが)した人はパッと思いつかない。「かばん」から話が飛ぶがaikoの曲作りの特徴として上記の3つを挙げる人はよくいると思うんだけどもう1コあるんですよ。コレが菊地さんが「aiko大好きラジオ」の中で指摘していたことと重なるんだけど、」

司会者「そんなラジオないよ!」

kenzee「「aikoにはブルースフィーリングがある」みたいなことをチラっと言うじゃない。いわゆるブルーノートスケールの話なんだけど、日本人でブルーノートで曲書く人って少ないのですよ。筒美京平にせよ、小室哲哉にせよ、小西康陽にせよ、中田ヤスタカにせよ、ヒャダインさんにせよ、基本、バッハの平均律でもの考えてる人々なのね。無論、バシっとブルーノートで曲書く人もいる。岡村靖幸さんがそうだ。大沢誉志幸さんとか。昔だと憂歌団の人たちとかキャロル時代の矢沢さんなどだ。でも、岡村さんにしたってブルーノートの曲(「19」「Vegitable」「(E)na」など)、渡辺美里提供曲「虹をみたかい」「Lovin' You」など)と平均律の曲(「カルアミルク」「友人のふり」「だいすき」など)はわけて考えていたと思う。つまり、脳内の平均律ソフトとブルーノートソフトは別々に立ち上げていたのだ。そこでaikoに話を戻す。話は「アンドロメダ」まで遡る。「アンドロメダ」は16ビート曲だが、一聴して「R&B風だ」とか「黒人ぽい」といった感想をもつ者は少ないだろう。それは全体のメロディが平均律ソフトで書かれており、そのため平板なJ-POPに聴こえるからなのだが、一瞬、フワっと世界が変わる瞬間がある。「アアアア~そんなーあたしの~2つの光 最近ーうっすらー ボヤけてーきたなー」の「アアアア~」「あたしの」「」最近」ときて「ボヤけて」の「ボ」が半音下がるのである。無論これはメジャーコードの3度が半音下がってマイナーになりました、というようなものではなく平均律スケールで走ってきたメロディにブルーノートがポーンと忍び込んでいるためである。この「ボヤけて」の存在感は大きい。ここでベンドすることによって平板な平均律の世界に突然、場末のスナックのようなうらぶれた奥行きがでてくるのである。つまり、aikoの脳内には平均律ソフトとブルーノートソフトがマルチタスクのように同時に立ち上がっているのではないか。無論、こういうタイプの作家がかつていなかったわけではない。まあ、ポール・マッカートニーがそうなんだけど日本人でJ-POP以降、マルチタスクの作家というのが思いつかない。強いて言えば服部良一の「東京ブギウギ」はAメロはフツーの平均律だがBメロ「燃ゆる心の歌 甘い声の歌声に 君と踊ろよ今宵も月の下で」というところでグっとブルースになる。だが、服部氏はこの曲をAメロ、Bメロと分けて作った気配がある。aikoのように平均律とブルーノートが同時進行というわけではなかっただろう。菊地さんが「aikoの身体にはブルーノートがはいってるネ」みたいな話はこういうことだろう。aikoの音楽を考えるとき、「黒人のブルース感覚と白人の平均律感覚のマルチタスク思考」「70年代のサウンドを指向しているワリに80年代の地下ミュージシャンのごとき実験精神」「アカデミズム感覚とヤンキー精神の交差」をテーマとして押さえておかないといけない。コードや不協メロをあげつらったところで建設的な議論とはならない」

司会者「わからない言葉はググってください。キミの目の前にはブラウザが立ち上がっているハズさ」

kenzee「イヤ~今週も疲れたナ~」

司会者「ってオイ! 今週「かばん」1曲で終わるつもりか! しかもあんまり「かばん」の話してないし!」

kenzee「コレ、いつ終わるんだホント。まあ、どうせあとの8曲、地味なんで来週バーっと飛ばせば済むんだけどね。「三国駅」あたりでゴニョゴニョ言って」

司会者「もうあんまり音楽で言うことないって言ってたジャン」

kenzee「でも、もう音楽の話これで終わりだと思うよ。あとはもう、ロキノンみたいな人生論とか宇野さんみたいな社会反映論みたいな、テンプレみたいなヤツでパーっと4枚飛ばしていけばいいかなーなんて」

司会者「ところで根本的なこと聞くけど、「かばん」ってどうだったの?」

kenzee「あまりに順当なaiko曲でなにツッコンでいいかわからない曲だよ。あーaikoっぽいなっていう。マキタスポーツがマネして作ったのかな、ぐらいの。例のG#→G→F#→F→AonEにしても素直にF#m→F#monEって下がったらあまりにもそのまま過ぎませんか、ってことになったんじゃないかな? やっぱりボクはこの人は天才肌だと思うな。「アンドロメダ」とか「あなたと握手」「雲は白」みたいなスゴイ曲がときどきあるのにこういう曲でシングル切ってしまうこともあるじゃない。なんていうのかな、ユーミンさんみたいな安定感のないところもまた、魅力なんですよ。でもねえ、大きなお世話な話すると、こういう天才の女性アーティストって子供産むと急に安定すると思うんですよ。ボクは矢野顕子さんが子供産まなかったら初期のトンデモない感じがしばらく続いたと思うんだよなあ」

司会者「じゃあ、来週は8曲、飛ばしてください」

aikoマラソンPart.10 今の田舎はホっとしないよ…(6thアルバム「夢の中のまっすぐな道」後編)

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昔の音楽雑誌のショートコラム風書き出し……

kenzee「この前、近所のドラッグストアに行きましたらネ、ア、ボクどっちかというとスーパーよりドラッグストア好きなんですよ。でね、ドラッグストアのレジっていわゆるパートのおばさんもいるけど薬剤師の人とかいろんな人がレジに立ってる時あるじゃないでスカ。で、昨日、茶とか箱ティッシュとか持ってレジ行ったら女の人がレジに立ってるんだけど名札のところに「ビューティーアドバイザー」と書いてあったのだ」

司会者「そういう資格なのかな」

kenzee「でもその人、そんなビューティーな人じゃなかったんですよ。「ビューティーアドバイザーなのにビューティーじゃない」って思ったら、いろいろ脳内で思考が始まってだな、「ビューティーじゃないのにアドバイス?」とか「さしずめオレが「イケメンアドバイザー」の名札をブラ下げるようなものでは?」とか」

司会者「アンタの容姿は知らないけども」

kenzee「「イヤ、医者の不養生という言葉もある」とかグルグル考え出すと笑けてきてだな、危険な状態に陥ったのだ。

ビューティーアドバイザー「チーン、891円になりまーす」

オレ「(…ビューティーじゃないのに…ハっ!) アア、ハイ…エエト1000円で……。(アドバイス? 他人のビューティーについて?)」

ビューティーアドバイザー「アノ、1円お持ちではないでしょうか?」

オレ「(もしかするとオルタナティブな含意の美とか…)エッ!1円?ア、ハイ。1円アハハ…エゲラエヘラ」

ビューティー「1001円お預かりしまーす。110円のお返しでーす。アリガトウゴザイマシター」

オレ「ウプッデュフフ…ドウモ……」

とかなりヤバイヤツと化して購入を済ませたのだった」

司会者「この話から得られる教訓は…」

kenzee「オレタチのこの街、いろんな罠が仕掛けられているので気を付けよう、ということだね」

・ショートコラムその2

kenzee「音楽好きの人ならもう知っているだろうが、音楽評論家の高橋健太郎さんが編集長の電子書籍音楽雑誌「エリス」を皆さんご存知かな? この雑誌のコンセプトは通常の音楽雑誌が扱うような新譜情報やライブ情報は扱わない。執筆者個人の音楽論・文化論を戦わせていく、意欲的な雑誌なのだ。インタビュー記事も少ない。すでに2号が発行されている。編集長の高橋健太郎氏をはじめ、北中正和、湯川れい子、ピーター・バラカン、磯部涼etcと異常に豪華な執筆陣だ。じゃあさぞお高いんでしょう?と思うが、コレが無料、タダ、フリー、ロハなのだ。信じられない。じゃあ、「イヤーマイブラ新譜最強!ダハハー」みたいなブログ調の記事が並ぶのかと思いきや皆さん、読み応えのある論考を寄せているのだ。なんでタダでこんなスゴイ雑誌が作れるのかよくわからないが「最近の音楽雑誌はツマンナイ。半分広告だし、その半分のインタンビュー記事もテンプレみたいな言語の応酬で飽きたワ。そんなんに700円も800円もだせるかーい」「オヤ?このブログなんだ?よく妄想だけで、こんな屁理屈引っ張れるなあ、雑誌のインタビュー記事とか新譜のレビューとかよりこういうのが面白くね?」とかお思いの方はゼヒ、購読してみるべきだ。PCならそのままgoogle chrome上で読める。スマホやタブレット端末ならbccks reader(電子書籍アプリ)にダウンロードが可能だ。「こんなリッパなもの、タダで読ましてもらっちゃ申し訳ないな」という人は寄付もできるようだ。音楽ジャーナリズムが変化する足音が聞こえてくるみたいだ」

司会者「創刊号の高橋さんの「You Tubeパねえ~」話からいきなり引き込まれる。かたや磯部さんはスカパー!の「高校生ラップ選手権」(You Tubeで各自検索)から日本語ラップの歴史を再読していく。こんなオモシロイ論考がナゼ、今まで既存のメディアで発表場所がなかったのか?」

kenzee「もひとつ、余計なお世話を言えば、ここまでテキストと論考に絞ったメディアなのだから新人賞つくったら面白いと思いますよ。これも普通のロキノンの読者ページとかだったら1000字ぐらいで「ゴールデンボンバーこそが真のロック魂だ!」みたいな箸にも棒にもかからない大二病原稿載るだけだけど、ちゃんと400字×50枚~70枚ぐらいの、つまり群像とか新潮の評論部門ぐらいのサイズでしっかりした音楽評論を募集するのですよ! 面白いと思うけどナー、ムチャクチャコストかかるだろうけど。イヤーひさびさに読むのが楽しみな音楽メディアの登場だね!」

司会者「でもー! マラソンは走っていただきます。前回1曲しか走らなかったんだからな!」

kenzee「今回のプロットはもうできていて、「恋の涙」から「花風」までバーっと飛ばして、「三国駅」でゴチャゴチャ言って、「星物語」でシレーと終わるのだ」

Yume

(コレが初回ジャケなのかな?)


・「恋の涙」

kenzee「ストリングスのピチカート奏法のイントロがオシャレないつもの8ビートロック。「馴染んでいたーのにー」のところでA→G#→G→F#と再び半音ずつ下がるシーンが。単にこの頃の彼女のマイブームだったのかもしれない。あるいは加山雄三にハマっていたのかもしれない。それにしてもこんなことでもないと「ピチカート」って言葉を実際に使うことってないよね」

・「ビードロの夜」

kenzee「アレンジが奥田民生のバックを務めたことで知られるDr.Strangeloveのベースの根岸孝旨。島田さん以外のアレンジャーを入れるのは珍しい。結果、タイトなギターロックとなった。いつもの難しいaikoらしい曲だが、まるで90年代後半以降の佐野元春とかゼロ年代のブルース・スプリングスティーンとか聴く感覚で聴けるネ! つまり、aikoロックにはつきものだったストリングス不要だったのでは論が考えられる。ギター2本が有機的に動けばあとはオルガンぐらいで良かったという。さすが民生、佐野と60年代~70年代のギター系ロックの重鎮と付き合ってきた人である。ギター脳でもの考えるとここまでメリハリのあるストーリーになるとは。逆に島田さんのキーボード脳が浮き彫りになってしまった。で、aikoももうロック業界のベテランなわけだがここらで60年代、70年代愛好家の若手バンドとセッションしてみてはどうか。OKAMOTO'SとかBAWDEISとかaikoが好きそうなギターバンドがいっぱい出てきてるわけだが」

・「Smooch!」

kenzee「そ~」という歌から入る、ライブの再現が難しそうな歌。まあ、ドンカマ聴きゃいいだけなんだけど。イントロなしで歌から始まる曲といえば山下達郎だとアカペラ曲の「Remember Me Baby」ということになる。「好きな曲なんだけどクリックとかドンカマ聴いてライブやるのはイヤなのでこの曲できない」と長年言ってきたのだが、ファンクラブ向けのミニライブにおいて「ファンクラブの皆さんだったらコケても大目に見てくれるだろう」ということでクリックなしで「Remember Me Baby」を演奏したのだ。

どうしたかというと、一人アカペラなのでイントロの直前に一瞬「ハッ」と息を吸い込む音が収録されている。で、その「ハッ」のみで居合切りのように歌いはじめたのだ。(達郎さんは絶対音感はないので先に、ピーとハーモニカでキーを確認していました)aikoは普通にクリック聴いてやっているに違いない。ファーストを彷彿とさせる60年代ガールポップ。とくにティンパニがドンドコ鳴るあたりが。神経症のスプリームスのような世界。DのキーなのにG#m7-5からAメロが始まるのももう慣れた。アウトロのaiko本人による口笛が意外に上手い。2005年に口笛吹く歌手はそういませんぜ」

・「花風」

kenzee「なんとも素直なポップス。こういうちゃんとした王道のポップを聴くとふだんのヘンテココードとかキテレツメロとかは、「ああ、この人、気持ちいいと感じるツボがズレてる人なのかな?」とか思うが、20曲に1曲ぐらい、こういう直球勝負の曲に出会うわけで、やっぱりユニークさとはなにか、と考えてやてるんだなあ。と思うわけです。アレンジャー的にもここまで素直だとそのままアレンジするしかないのでスパっとアイデアがまとまったに違いない。もう、マグロの握りみたいなもんである。しかし、ふだんから納豆の軍艦巻みたいな曲ばっかり食わされてるもんで、こういう曲聴くと、ホントにaikoっていいなあ、と思う」

・「三国駅」

kenzee「aikoらしいローラ・ニーロ、キャロル・キング風バラード。スラーっとした綺麗なバラードなのであんまり気づく人も少ないだろうが、「もしもー」と歌が入る直前に4分の2拍子の変拍子が挟まってますね。こんな曲でも変態は健在である。「変わらない街並み あそこのボーリング場」という歌詞に見られるようにこれは彼女の青春時代を送った阪急宝塚線三国駅のことである。かれこれ50曲以上aikoの歌詞を聴いてきたわけだが、世間的には恋愛ソングの名手とされている彼女だが、実際には過去の恋愛やその風景を振り返る叙情の世界(「September」「えりあし」)やドラッギーというか感覚的な世界(「Power of Love」「花火」)といわゆるラブソングが同居するという幅の広さが彼女の歌詞世界だ。この曲は前者の叙情ワールドの今のところ(ボクが聞いたここまでで)最高峰であろう。シングル曲である上に具体的な駅名がタイトルであったことで、地元ではかなり話題になったようだ。この頃、J-POPにこのような具体的な地名を織り込むヒット曲がいくつか登場しており、その現象について考察した文献がある。ちょっと長いが引用しよう。

Jポップに「地名」復権 「ふるさと」身近に鮮明に 地元の映像イメージ歌う

 「ふるさと」を歌うJポップの曲が人気を集めている。目立つのは、自作自演のミュージシャンが地元を歌う例。ヒットという名の大量生産・大量消費のもと、歌から駆逐された地名が息を吹き返した形だ。明確な映像イメージから生まれた曲が、地域が希薄化する社会に生きる聴き手の「心の居場所」となっているようだ。(星野学)

 aikoは昨年、学生時代を過ごした大阪の街を描いた「三国駅」を出した。若さゆえのあせりと街への追憶とで織りなすラブソング。「その頃を自分の中でより輝かせるためには今をがんばらないといかんなとも思う」と発売時の宣伝資料で彼女は語る。編曲は70年代アメリカンポップスを思わせる。男女3人の新人ユニット「いきものがかり」が3月に出した「SAKURA」は、彼らの地元、神奈川県海老名・厚木両市の相模川周辺が舞台。卒業で別れた恋人の思い出を桜の花に投影し、オリコンシングルチャートでは最高で17位になった。
昨年作ってライブで歌った後、歌詞に「小田急線」「大橋」と、場所がわかる言葉を加えた。「ふるさとが多様化してイメージがわきにくいので、地名を入れた方がリアルだと思った。映像を思い浮かべながら歌詞をつけた」と、ギターの水野良樹。文語を交えた歌詞を和風の旋律に乗せ、シンプルな8ビートに仕上げている。(中略)なぜ、今、ふるさとなのか。5月の関東都市学会で、ソニー・ミュージックエンタテインメントの増渕敏之プロデューサーが発表した「J―popの中のご当地ソング」がヒントになる。
増渕プロデューサーは、均質化し肥大化した市場に売る戦略として80年代から90年代にかけて、イメージを限定する地名が歌から消されていったと考察。一方、音楽業界で働く自らの実感として、00年あたりから地名入りの曲が増えてきた、と印象を語った。「地域コミュニティー崩壊や格差進行で殺伐とする中、地元というアイデンティティーを持つミュージシャンの『ふるさとな感じ』が、心のよりどころとして受け入れられやすくなった」とみる。ならば曲数の推移は? 月刊『歌謡曲』の00~05年の各年12月号に載った延べ2861曲から地名入りの曲を抜き出し、発売年ごとに整理すると、00年の13曲から05年は41曲に。演歌を除くと10曲から19曲だ。依然少数派だが、増加の兆しはうかがえる。『J―POP進化論』の著者、佐藤良明・東京大教授は、aikoや「いきものがかり」らの曲が「日常の祝福」を歌っていることに着目、「登場するのは都会に対する田舎ではなく、光に包まれたほっとするイメージの場所。そこに地名が出てくることで、聴き手の気持ちがさらさらと映像化されていく」と指摘し、こう続けた。
 「地名が加わったというよりは地名を隠していた化粧がはがれ落ちた感じ。いわば、すっぴんの雰囲気の音楽。90年代のような、きらびやかな先端的な世界に向けて背伸びする自分、という構図が現実的でなくなってきたからでしょう」(敬称略)(朝日新聞朝刊2006年6月13日「J-POPに地名復権「ふるさと」身近に鮮明に 地元の映像イメージを歌う(星野学))

ここで、佐藤良明先生の意見に真っ向から対立せざるを得ないのだが、下の画像をみていただこう。

Mikuni1

これが阪急宝塚線三国駅だ。だが、そう言われるからそうかと思うだけで、「実は埼玉県のナントカ駅です」と言われてもそんな気がするだろう。この曲で描かれている風景とは佐藤氏の言うようなホノボノとしたホっとする日本の田園風景とかではない。むしろ、匿名的な、殺伐とした郊外化された典型的な地方都市の風景である。マンションが立ち並び、駅前は再開発され、よく知らないがたぶん、古い商店街はゴーストタウン化し、駅前の近代的な商業ビルにユニクロや大手チェーン系のファミレスなどが入居する、大阪でも東京でも札幌でもない、匿名の空間であろう。で、またも妄想だがaikoが中高生を過ごした90年代初頭とは未だそこまで地方の開発は進んでいなかったはずだ。「変わらない街並み あそこのボーリング場」にしても、aikoは「街」をかなり広いレンジで捉えているようで、wikiによればボーリング場は三国駅近くの新三国アルゴがモデルだとされていたが実際には新大阪にあるイーグルボウルであったという。そういう意味では「変わらない街並み」かも知れぬ。いずれにせよ、典型的な郊外である。つまり、ここでは「september」のように「失われた恋」を描くように「失われた風景」について描いているのだ。ここで日本のロックの発祥、はっぴいえんどを想起せざるを得ない。傑作「風待ろまん」は東京オリンピックにより、再開発される以前の東京の下町の風景を書き留めておく、という松本隆の個人的な都市論であった。あのレコードに刻まれた東京とはすでに失われた風景であったのである。ここでaikoが行ったのは伝統的な日本のロック詞の作法なのである。では、なぜ2005年に風待ろまんならぬ、三国駅ろまんを描かなくてはならなかったのか。再度、朝日新聞記事に戻るが90年代のようにきらびやかな先端的な世界に向けて自分を発信する、という構図、という見立てだが、これは渋谷系に代表される音楽文化について評したものだ。実はaikoはこの、「先端的、感覚的表現」で90年代に成功を収めている。「花火」だ。ベック「オディレイ」を模したような先端的なシモキタ風サウンドに16ビート、そして月にブラ下がって、花火を見下ろして、という若い女性らしい感覚的な歌詞。つまり「都市的表現」で一度は成功しているのだ。それが6年後に「地方的表現」でふたたび脚光を浴びるとは。無論、三浦展や速水健朗さんなら、「それは99年の大店法以来の全国的なファスト風土化と均質的な風景、さらにADSLの普及による都市的表現に地方の若者が憧れるの図、が成立しにくくなってきた、という事情によるものだ」と明快に分析するだろう。そうなのだ。「花火」の時代には未だ、地方の若者は都市の先端文化や感覚を上京して学ぶことがステイタスであった。「渋谷」や「池袋」という地名に神通力があった。しかし、2005年にはもはや若者たちは郊外のイオンやイトーヨーカドーに代表されるショッピングモールとmixiに代表されるソーシャルメディアで充分欲望を満たすことが可能となった。「花火」から「三国駅」までこれだけの距離がある」

司会者「しかし、それでは宇野さんとか速水さんの郊外論そのままなぞっただけで、なんにも新しさのない話だが」

kenzee「で、今日のポイントはこうです。菊地さんもおっしゃっているようにaikoの音楽とはずーっとおんなじ音楽なんです。急にレゲエに目覚めたりしてくれない、こういう企画にとってはツライアーティストだ。しかし、社会や環境の変容といった別の視点から見れば、aikoの音楽はちゃんと生き物のように変化しているのですよ。2005年に「花火」は似合わない。人一倍「失われるもの」に敏感な彼女はいち早く、この国の郊外の風景の変化や価値観の変化を嗅ぎ取っていたのだろう。「三国駅」はまさにゼロ年代を問う1曲だったのだ」

司会者「しかし、朝日新聞記者と佐藤先生の「地元イコールホッとするホノボノした場所」という決め付けに近いステレオタイプな認識には呆れるほかない」

・「星物語」

kenzee「メジャーセブンス系のローラニーロか吉田美奈子のような都市の孤独。穏やかなハチロクビートでこのアルバムは幕を閉じる」

・アルバムトータルの感想

kenzee「これこそはaikoのペットサウンズだったのではないかと思うね。もうここまでくると「be master of life」のようなライブ向けの曲がまったくでてこない。このアルバムは「青い光」と「三国駅」の2曲が重心になっている。そしてこの2曲とも「失うとはどういうことか」という哲学的なテーマに取り組んでいる。90年代の渋谷系のウンコみたいな連中がこの、2005年の時点ではほとんど死に絶えていたにも関わらず、ナゼこの人は生き延びた、というか大きな成功を収めたかを考えるとやっぱり、世の中の空気を吸っているということに尽きると思う。確かにあんまり変化のない音楽のように聴こえるが、ホントに変化してなかったらとっくに飽きられているはずなのだ」

司会者「ということであと4枚まできましたな」

kenzee「こんな時間のかかるアルバムだと思わなかったよ。やっぱりペットサウンズなんだね。ライブの再現性の低さも含めて」

司会者「じゃあ次は2006年の「彼女」」

kenzee「「彼女」はねえ、ボクの好きなポップス寄りのアルバムなんでそんなにしんどくないな。まあそう言う意味で一番シンドかったのは「夏服」だけどネ」

aikoマラソンPart.11スナックの壁を乗り越えられるか(7thアルバム「彼女」前編)

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kenzee「正直、ツライ…まだ、アルバム4枚もあるなんて…」

司会者「アンタが自分で言い出したんじゃない」

kenzee「完全にナメていた。ただ、これからワリと好きな曲が増えてくるので辞めるわけにもいかないのだ。これが「夏服」みたいなアルバムばっかり続くならもう終わりでいいんだけど」

司会者「でも、この2006年時点で結構な地位を確立していたはずなのに毎年律儀にアルバム制作するねえ」

kenzee「そうなのだ。このしつこいまでの量産の美学はやはり小室やつんくや矢沢永吉などのヤンキーパワーを思い出さずにはいられない。この、畳の上で死なない感じに我々ヤンキー国民日本人は魅了されてしまうのだろう。しかし、女性シンガーソングライターでヤンキー、という人は日本の歌謡史上あまりいない。パッと思いつくのは中森明菜やキョンキョンといったアイドルたちだ。例外的に浜崎あゆみがいるぐらいで、ヤンキーミュージックは基本、男性主導でその歴史が作られた。ヤンキー歌謡を考察したテクストに「ヤンキー文化論序説」(五十嵐太郎編著)に寄稿された近田春夫さんのヤンキー音楽の系譜がある。この中で、ヤンキーロックの誕生はやはり、1972年の矢沢永吉率いるキャロルであると定義しているが、その後に続くアーティスト名はこんな感じだ。横浜銀蝿、BOOWY、氣志團……。ヤンキーの音楽は作品的というより商品的である、と発言している。

キャロルや横浜銀蝿にはあったアマチュアリズム、あるいはなにかしらの反権力の匂いが、もうBOOWYの音にはなく、手触りはプロの作るパッケージのそれであった。外見から受ける印象程には「突っ張っていない、無難」な作品を好んで作るという、一貫してヤンキーの音楽家に見られる特質は、BOOWYにおいてすでに固まっていたのではないかという気がしてならない。(前掲書)

さすが近田さん、30年以上日本のロックに関わってきた人である。ヤンキー音楽の特質、奇異な見てくれとは裏腹に無難な作りの曲。これはTMネットワークにおける小室や、シャ乱Qにも受け継がれている。無論、作品主義のミュージシャンの存在にも近田氏は触れている。宇崎竜童や横山剣が「ヤンキーロック」と定義しにくいのはその作品主義のためだという。そこでaikoなのだが、やはり彼女も「ヤンキーロック」の系譜に置くにはムリがある。この近田論でいけばもっとも近い位置と考えられるのは宇崎竜童的、「ヤンキーなのに作品主義」の位置だろう。つまり、ヤンキー女性ボーカリストの極北、山口百恵をそろそろカヴァーとかしてもいい頃なのではないか。前回、コメントいただいたgeraさんの「なぜ、似たような経歴の川本真琴はaikoほどの成功を収められなかったのか」それは、ひとえにヤンキーパワーの欠如である。aikoのイラストなどから滲み出る、ヤンキー&ファンシーなワゴンR感(車高低め)。イラストや服装まで含めたaikoの表現から感じられるのはそのような「まともな神経の人間なら悪趣味と感じるが、実は日本の人口の8割にヒットする感性」である。しかし、aikoの音楽そのものには日本の伝統的な女性ヤンキーミュージック感、つまり、山口百恵や中森明菜や工藤静香やwinkのような背景がまったく感じられない。このズレこそが決定的な個性なのだ」

司会者「もう、ここで終わりたいとこだけど、マラソンあるよ」

Aiko2006


kenzee「2006年発表の「彼女」。エライもんで、ここまでムリクリ量産して、時々駄曲も放出しながら走ってくると、あるとき安定期がくるのだ。それが「彼女」だ。急に洒落た曲がパカパカでてくる。まるで大工の職人のように、ひたすらカンナ削ってるうちに、ガラパゴス的な技術が身に付いたみたいなアルバム。

・1曲目「シャッター」

kenzee「とにかく1曲目からディストーションギタージャーン、がないだけで、許せてしまうオープニング。ギタージャーンと大げさなストリングスがなくなっただけで大変な成長だ。…今、便所から帰ってきてここまで読み返したがモノスゴイ上から目線だ。このままエラそうにいこう。「アンドロメダ」の続編のような16ビートの5リズム+ホーンセクション。ファンク期の吉田美奈子のような音像。「擦り切れた靴のかかと気にしてばかりで」と畳み掛けるあたりはaiko得意の世界である。「三国駅」同様、かつての若い頃の二人に現在の自分は追いついているか、という自問の歌。「もう少し自分を見つけたら 電車に乗って 橋をこえて」という恋愛ソングとはいえ複雑な心情を描いている」

・2曲目「気づかれないように」

kenzee「久しぶりに会った恋人への複雑な思い。すでに恋人は指輪をしている。主人公は今の彼女について問いかけるのだった。まるで古い戦友にであったかのような、懐かしさを込めた恋愛の歌。このように今回のアルバムは作家的に30代女性の恋愛の風景を描いていく。ビリージョエルか佐野元春のようなスタンスである。やっぱり前作でシンガーソングライターが一旦完結したんだね。前作のあのパーソナルな世界はひとつの到達点だったのだね。今回は座付き作家としての側面が強調されることとなった。まるでこれから誰かに提供するかのような曲たち。ボクはこういうアルバムが好きなんですよ。まりやさんでも「リクエスト」が一番好きなんですよ。しかし、あの斬った張ったの恋愛の人の世界の先にこういうのがでてくるんだねえ。作家ってすごいねえ」

・3曲目「キラキラ」

kenzee「E→G♭→E♭m→A♭→Dm-5のイントロのリフの勝利の一曲。この頃のaikoはなにか16ビートの神がとりついていたのか。「シャッター」「キラキラ」の2曲だけで800円ぐらいの価値がある。シルバーリングが黒くなったとか、時間の経過を感じさせる表現が多いのね。時間の中で人間の感情とか考えがなにが変化するのかとかしないのかといった…慣れない歌詞の話するとグズグズになるな。曲の出来がいいとあんまり言うことなくなるんですよ。あえて悪く言うならさっきの近田さんのヤンキー音楽の特徴のように、アマチュア感がない。プロの手によるプロダクトですよ。「No,New York」みたいなもんで。「ナニ、このコードwww」とかツッコむとこひとつもない曲が書けるとはね。スコーンとなにかが吹っ切れたかのようだ。しかし、こんな順当な音楽が続くとこの企画的にはツライ」

・4曲目「キスするまえに」

kenzee「素直な8ビートロックンロール。学祭バンドがコピーしそうなポップ。だが、久しぶりに「Powe of Love」以来の現代詩の歌詞。秘密ランデブーとか虹色ランデブーとかどこからこんな語彙がでてくるのか。田舎の山奥にそんなラブホテルありますよね。ランデブーとかエンペラーとか。どう見ても70年代前半に作られたに違いないデザインで。昔、兵庫県の豊岡というところだったと思うけど北近畿タンゴ鉄道というのに乗ってて、車窓みてたら、あきらかタダの木造アパートなのに平然とベタ看板に「ホテル○×」って書いてあって、「なんでも言うたモン勝ちかい!」と思った記憶がある。「闇は食べてしまおう」とかよく闇食ったり、海ハサミで切ったり忙しい人だ。いまのところ引っかかるところがなんにもナイ。やればできるヤン! とか演奏メンバーに言われてたんじゃないか。「アレ? aikoどうしたの? D♭→G7とかキチガイみたいな進行ないジャン」「F→G→Em→Amとか急にマジメになってどうしたん?」とか言われてたに違いない。しかし、5年前に「夏服」を作った人がここまで変わったのだ。嬉しいじゃないか」

・5曲目「深海冷蔵庫」

kenzee「と言った舌の根も乾かないうちに「海の底を 泳いで光を遮りたいー」のD→E→F#の素っ頓狂な転調に笑ってしまった。でもいい曲。なんか、そこらのツイッターみたいな感想ですけど明るい、ウォームなアルバムですね。「日曜日も 星のリングも 22日も 青い空も 長袖も 家の鍵も 笑った日も 夢のダンスも」と現代詩のように畳み掛ける後半が圧巻。アレンジの手本のようなアンサンブル。全員簡単なことしかやってないんだけど、これ以上やるとトゥーマッチというギリギリの交通整理。これをヘッドアレンジでプレイヤーに任せるとギターがうるさすぎたりやりすぎになっちゃうわけですよね。ナニ、この作家とアレンジャーの阿吽の呼吸。この時期、制作がみんな同じ方向を見てるなとわかる曲。「コレ、悩んだ末にグチャグチャになっちゃったナ、」みたいな曲がない。コレ、もしかしていいアルバムなのかな?」

司会者「いつも、はじめてちゃんと聴くので最後までわからないんだけど」

kenzee「これで後半ギター大会だったらモノスゴイ裏切りだワー」

・6曲目「17の月」

kenzee「例によってまりやさんけんかをやめてかサザン栞のテーマの如きハチロクバラード。イマドキこんなスナックに合うような曲書く人いない。こんなレーズンバターとか焼酎の梅割りとかが合う曲もないだろう。最近スナックを感じさせる歌が減ってるのだ。スナックで歌われてはじめて迫力を発揮する歌というものがある。まりやさんの「駅」とか普通にYou Tubeとかで聴いても退屈な歌ですよ。それがスナックのショボイカラオケのステージで歌われた途端、その意味わかる、みたいな音楽があるんですね。なにか大衆の心を慰める、みたいな土着の力、みたいなものがある歌とない歌があるのだ、とスナックだとよくわかるんですよ。「徳永のレイニーブルーってこんないい曲だったの?」みたいな。でもあとでYounTubeで観てもその感動はないのですよ。あとレミオロメンの「粉雪」もスナックで聴いてはじめて電撃が走る。ちなみに山下達郎はスナックで聴いてもなにも面白くない音楽。やっぱり土着の、松山容子のボンカレーとかナゾのサラ金の看板に囲まれて育った人でないとでない迫力というのがあるのだ。aikoぐらいまでがギリギリ、ボンカレーなのだろう。ちなみにラップはスナックで映えることは絶対にない」

司会者「曲の話しろよ!」

kenzee「aikoをスナックで歌う女の人は見たことないな~。宇多田の「First Love」とかMISIAの「Everything」とか定番なのに。ボクはスナックで輝く歌っていうのがすごく気になるな~。スナックで輝くものってあるんですよ「ヘビーローテーション」とか。スナックの壁を超える力ってなんだろうと思うのですよ。これはわからないんですよ~つんくですらスナックの壁は超えてないような気がするのでね」

司会者「じゃあ来週は後編だな」

kenzee「B面1曲目って感じの「その目に映して」からスタートできれいでしょ?」

週末が怖い…(ブログっぽく最近読んだ本の話。aikoはお休み)

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kenzee「最近読んだフォン」

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・宇野常寛「日本文化の論点」(ちくま新書)

kenzee「日本文化って言うからてっきり歌舞伎とか人形浄瑠璃とか都々逸の話でもはじめるのかなと思っていたらガンダムとか特撮博物館とかAKBの話だったといういつもの宇野さんの話だ。まず、従来の文化消費、たとえばプロ野球なんかは消費の主体がサラリーマンで奥さんが専業主婦で子供が二人ぐらいいて、郊外に家があって、都心から1時間以上かけて通勤するみたいな生活モデルとか人生モデルに最適化されたものだった。しかし、そのような人生モデルはとうに崩壊していて、文化の消費の仕方も変化している。新しい消費とはコンテンツ→消費者といった、一方向のものではなくてコミュニケーションそのものなのだ、という話。これからの文化消費は地理に規定されないし、コンテンツや一次創作者のコンテンツに規定されない、ニコ動的なコミュニケーション、ゲームみたいなものだ、という話。で、最後はAKBの話で終わる。坊主事件にも触れている。宇野さんってもっとイケイケの人かと思ってたら「坊主事件は辛い。恋愛ルールを明文化すべきだ」とか普通のこと言っててズっこける。でも「ゼロ年代の想像力」の頃みたいな優等生的にツッコみまくるシンドイ人ではなくなってきたね。仕事でふだんよく会うAKBのメンバーにわざわざ金払って握手会行って握手する話とか「もしかして漢?」なエピソードも楽しい。でも、「音楽って~」って話してる時に「結局、これからはコミュニケーション、コンテンツレベルじゃなくてアーキテクチャでもの考えないと批評にならないよネ!」とかで話終わらすヤツがいたら腹立つと思うな。コレ、読み物だから面白く読めるけど宇野さんの口真似をリアルでして嫌われ者になる学生とか続出しそうで怖い」

・円堂都司昭「ソーシャル化する音楽」(青土社)

kenzee「ここ10年の音楽を巡る環境と受容の変容を考えるうえで格好のテキスト。iPod以降の音楽の変化。You Tube、ニコ動の登場。AKB、初音ミク、リマスター盤に代表されるCDの高音質化。フェスの変容。定額サブスクリプションサービスの上陸……。これ一冊でイマドキの音楽の問題はだいたいわかる。音楽とはソーシャルを通じて参加する余地が増大した。かつてはカラオケぐらいしか自己表現の余地が残されていなかった音楽だが、DTMの進化、ボーカロイドの登場、マッシュアップ、ソーシャルメディア、フェスにおけるモッシュ、同人音楽の隆盛。あるいは握手会や総選挙の投票。歌が下手でも、楽器が弾けなくても音楽カルチャーに参加し、楽しむことができる。なにしろ音楽というコンテンツ自体はもはや「偏在」しているのだから。…これはリサーチもかなりしっかりされてる、良書ですよ。順当な話で批判のしようもない、というタイプの本だけど。イッコ、これに書かれてない話で前から気になってたことがあって、いっとき、佐久間正英さんがブログで「音楽業界に金が回らないと音楽の質が低下する、ヤバイよ」って話してネットの嫌儲の人たちからボコボコに炎上される事件があったじゃないですか。あの中の佐久間さんの話のなかでずーっと気になってるのは「昔から音楽をタダ、もしくは廉価で手に入れる方法はあって、それはエアチェックだったり、レンタルだったりした。今は違法ダウンロードになった。そこでだ、合法ダウンロードも含めてなんだけど昔はエアチェックにしろレンタルにしろ、録音してる間も音楽を聴いてたじゃない? でもダウンロードしてる数十秒の間ってのは音楽聴けないんだよね。これは結構マヌケな時間で重要な問題だ」みたいなことをおっしゃっていて。もちろん「プッ。数十秒ぐらい我慢しろよ」みたいな煽りがやってくるのだが、コレ、CDのリッピングにも同じことが言えて、ボク、10枚ぐらいいっぺんにCDリッピングするんですよ。で、曲のタイトルとか自分で打ち込まないと気がすまないのね。gracenoteとかで自動入力されるデータが全角だったりすると発狂するのだ。あと、タイアップ情報とか削除しないと気がすまないし。そしてジャケ画像探して貼りつけたりしてたらあっという間に3,4時間過ぎてたりするからね。イヤホント、リッピングって時間かかるのよ」

司会者「そんなの本とか読みながらコーヒーとか飲みながらやればいいじゃん」

kenzee「その辛さも含めてリッピング作業楽しいんだけどね。無論、iTunesだ、サブスクリプションだと言ったところでaikoのようにそもそも配信の許可をだしていないアーティストもいるのでネットは万能ではないね。ここにはなにか、失われたものがある気がするのだ」

・二木信「しくじるなよ、ルーディ」(ele-king books)

kenzee「81年生まれの若手音楽ライターによる初の単著。主にアンダーグラウンドのヒップホップを取り上げる。2003年以降の拡散したヒップホップシーンのある一面のドキュメントとなっている。シーダ、シンゴ西成、田我流といったミュージシャンのインタビューとデモで逮捕された話など、エッセイプラスインタビュー集という構成。基本、ロキノン以来の人に迫るタイプの音楽批評。この手の音楽ライターにアリガチな「オレ、社会の底辺の弱者の奏でるホンモノのアート知ってるんで、ヨロシク(キリッ)」的な面倒くさい左翼感のない、憎めない人物なのだ。二木さんは。逮捕の話も「くだらねえ官憲の犬どもめ、オレの信念は曲げないゼ」みたいな中二病的自慢話がでてくるかと思えば「5つ上の兄貴にメチャ怒られました、ゴメン」とか「カツ丼でなかった」とかどこかのんきな、愛すべきキャラなのだ。だが、気になる箇所もある。2010年の沖縄の辺野古のピース・ミュージック・フェスの取材もされている。この記事のなかで「残念な話、未だに「音楽と政治を結びつけるな」という野暮な難癖をつけてくる心の狭い音楽リスナーに対しては「どーも、すいません!俺は音楽オタクじゃないんでね!」と仕方なく答えるようにしている」という箇所がある。その路線でいくなら「音楽とは政治的な側面がある、つまり…」というようなロジックを組んでおかないと先々シンドくなるだろう。「政治とかよくわかんねーけど、マジ、最高の瞬間あったゼ!音楽って素晴らしいね!」ではこのジャーナリズムは素人のツイッターに負けてしまう。批評とは残念なことにもはや、ゲームである。「純真な心があるので、真のアートがわかります」という素朴な論理は少なくともネットでは格好の標的にされてしまう。しかし付録の「日本のヒップホップ2000→2012」の、アンダーグラウンドに偏らない、耳の広さには期待してしまう。この並びでKREVAやキングギドラやDABOといったこの界隈ではあえて避けそうなメジャータイトルが並んでいるところがガイドとしても有用」

80年代悪趣味ビデオ学入門(洋泉社)

Bideo

kenzee「昔、今ほどツタヤが世界を席捲していなかったのどかな時代。どこの街にも個人経営のレンタルビデオ屋があった。どこのビデオ屋も会員にならないと借りれないので地元の人間しか用のない場所ではあるのだが、ボクは旅行に行った先などでも未だに個人経営のくたびれた感じのビデオ屋があると入ってしまう。80年代からやっているビデオ屋などはある種の博物館的な匂いすらある。そういうビデオ屋には「ナニコレ?」なホラービデオがよく転がっていた。「ゴースト・イン・京都」みたいな。野球の雨傘番組でしか観たことのないカンフー映画とか。そんななかに今はもう観れない「おニャン子・ザ・ムービー危機一髪」とか転がってて、超観てえ!みたいな。そんなナゾビデオが昔はいっぱいありました。中原昌也さんの「別にコレ、俺こんなヘンな映画知ってるぜ!自慢じゃなくて、こんな映画があったということすら誰の記憶にも残らないかもしれないことが怖い。世の中からどんどん選択肢がなくなって未知のものを知る機会が減っている。それが怖い」という発言は重い。ボクもつい最近、ツタヤで、昔観た邦画のほとんどが棚に並んでない! 韓流テメー!と思ったことがあるのでよくわかります」

・中島らも「バンド・オブ・ザ・ナイト」(講談社文庫)

kenzee「ブックオフの100円コーナーでなんとなく見つけて買った。中島らも氏の大学卒業~就職するも4年後に退職~フーテン生活でムチャクチャな生活を経て、コピーライターで成功するまでの青春記。読み出したらとまらなくなった。基本、酒飲んでるかラリってるかのデタラメ生活。時は1980年。もうフーテンもヒッピーもドロップアウトもダサい時代。そんな時代に逆行し、酩酊していた日々。ボクは自伝的青春小説というものに弱いのだがこれは泣ける。最初の就職で大変な目に遭うところとか今の若者が読んでも面白いだろう」

司会者「aikoは?」

kenzee「今週、一回休みあるじゃないですかあ。そこで続きいきますんで。つーか、だんだん週末が憂鬱になってきて…。たまにはこういうブログっぽいのも…」

司会者「もう後半巻いてもいいんじゃないか?」

kenzee「もっとバーっとやるつもりだったんだけど。「彼女」後半は水曜日更新です」






aikoマラソン12「キラキラ」のようなグルーヴは簡単にはでない(7thアルバム「彼女」後編)

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kenzee「前回のやる気のない記事のアクセス数がボッコーンとハネ上がっているので何事かと思ったら17万フォロワーを持つ佐々木俊尚さんがツイートしていたのだった。

大変ありがたいのだが、前回の記事はここ数カ月でもっとも手抜きのボヤき記事なのだ。初期のaiko記事を100とするなら0.2ペソぐらいの力の記事だ。こういう、人が気を抜いたスキに襲撃するのが佐々木さんなのである」

司会者「スキをつかれたね」

kenzee「初期のaiko記事なんて、「三文音楽ライターどもに挑戦状叩きつけたるー!」ぐらいの気合で望んでいたのに、そういうのはスルーなのだ」

司会者「そんな肩に力入ってるヤツに声かけたらメンドウだもん」

kenzee「で、ハ~最近aikoにも疲れてきたニャーなどとボヤいた瞬間、17万フォロワーにツイート! きっと皆さんドレドレと覗いてみたら、真剣な音楽の話してるかと思いきや、「昔の地方のビデオ屋は面白かったニャー、時代劇のコーナーに「バカ殿」が挟まってたり」みたいなヌルい話しかしてないじゃないか!と意識高そうな佐々木フォロワーは怒っているかもしれない。しかし、これが佐々木俊尚さんなのだ。まるで黒澤明「七人の侍」における、菊千代のような寝首のかき方!(注…七人の侍後半で、三船敏郎演じる八方破りキャラの菊千代が敵の野武士の陣地に紛れ込む。すると末端の野武士たちがボヤいてるのだった。「ハ~農民襲うのも最近飽きてきたニャー」とか言って気ィ抜いてるスキを狙って襲撃、というシーンを想起している)まんまと殺られた。気を抜いたオレの負けだ。結構、今まで手間のかかった記事を書いてきたつもりだった。とくにaiko記事は手間がかかっている。まず、一回通して聴いて、次、コードを耳コピするために断片的に聴いて、最後、歌詞を読みながら聴く。と最低3,4回聴くのだ。ちなみに耳コピするときのお供はこのクルクル巻いて持ち運べるスクロールピアノだ。

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(クルクル巻けマス!超弾きにくいヨ!)

どうせコードしか取らないからこれでいいのだ。このように結構手間ヒマかけてやっていても一瞬のスキをついて2000人もの人々に「なんだよ、おニャン子ザムービーの話かよ」と残念がられたりする。これは「真剣な企画の途中で気を抜くな」という佐々木さんの教えなのか」

司会者「ホントは感謝してますからね! 佐々木さん!」

kenzee「そんな教訓を胸に「彼女」の続きを行きたいと思う」

Aiko22

(これが初回ジャケかな?)

・7曲目「その目に映して」

kenzee「これは2006年にはもうaikoしか書けないだろうというメジャーセブンス系パンク。素直な曲に素直な歌詞。こういう曲をアイドルとか提供したら面白いのに。B面一曲目らしい曲。しかしこんな引っかかりのない曲ばっかりのアルバムは初めてだ」

・8曲目「ひとりよがり」

kenzee「誰もがイントロでビートルズ「ミッシェル」を思い出すであろうマイナーのミディアムバラッド。「シャッター」をはじめ、今回のアルバム、恋人だか昔の恋人だかが人生を先へ先へと歩んでゆくのに自分は未だ同じところにいるようで焦る、みたいな歌詞が見られる。確か酒井順子の「負け犬ブーム」が2004年だったと思うが、女性の晩婚の時代の空気を無意識に嗅ぎ取ったかのような世界。この、「恋人はスタスタ先へ行ってるのにオレときたら…」と焦る歌といえば初期の槇原敬之さんの楽曲で「勝利の笑顔」(アルバムにもベスト盤にも入ってない。確か「冬がはじまるよ」のB面)という佳曲がある。要は恋人は志望校に受かって夢に向かって進んでいくのにオイラは浪人で、夢に迷っている、でもとりあえずトボトボと歩き出す、という内容。で、よくできたバラードなのですよ。なんで短冊CDのB面で消えていたのか。たぶん、どんなときも。直後のあの時代は未だバブルというかリア充的な価値観で音楽商売が回っていて、人生応援歌シンガーに似合わぬ暗い歌詞、と判断されたのではないか。ウンコのような時代である。あの歌の、うらぶれた、寂しさに励まされた人もいただろうに」

・9曲目「あられ」

kenzee「70年代のユーミンさんのような、シンガーソングライター然とした1曲。もっともキャラメル・ママ感の強い1曲。こういう曲を聴くとaikoはゼロ年代のバラーディアンだ、五輪真弓、ユーミンさん、尾崎亜美といった「日本のキャロル・キング史」の系譜のあとにくる人だな、とわかる。間奏の抑えたアンサンブルの緊張感がたまらない。ここでソロをあえて入れない、と判断したアレンジャーに乾杯」

・10曲目「スター」

kenzee「もうこのアルバム、これで終わりでもよくね?と言いたくなるバラード。「あられ」の続編のような素直なラブソング。サビに向かってD→Aへとムチャな転調するが、不思議とスイーっと繋がっていく。こういう白人ぽいバラードがJ-POPからなくなって何年経つだろう」

・11曲目「恋ひ明かす」

kenzee「なんか…可もなく不可もない順当なエイトビートロック。ホント…なにも言うことないな…。決してキライじゃないし。5分ぐらいで作ったんじゃないかな」

・12曲目「雲は白リンゴは赤」

kenzee「こ、これは! Boo Radleys「Wake Up Boo!」やないかーい!

これはまさに1995年のブリット・ポップの大名曲ブーである。95年といえばコレかベンフォールズファイヴを聴いていたものだよ! aikoよ、ニクイ女である。オヤジ泣かせの…」

司会者「アンタと同世代だろ」

kenzee「ちなみにWake Up Boo!は史上もっとも気分が良くなる曲に認定されているそうだ。(ウィキ調べ)ただし、曲の凝り加減では「雲は白リンゴは赤」のほうに軍配があがる。一筆書きみたいなメロディがaikoらしい。「なーいーたー」の素っ頓狂なトーンも。しかしこんなモノスゴイ曲もっと売れんかったんかね?せめて「ボーイフレンド」ぐらいに。ていうかこんな企画しなかったらこの曲に出会えてなかったことが怖いワ。それにしても「飛行機」以来睨んでいたクリエイション好きがこれで実証されたのだった」

・13曲目「ある日のひまわり」

kenzee「ダメ押しのように登場する「アナタコンプレックス」の歌。アナタはいつも笑顔なのにアタシときたら…という曲。アメロックやね」

司会者「終わり?」

・14曲目「瞳」

kenzee「いよいよホントにこれで最後、という感じの都市のバラード。70年代のローラニーロ、バリーマンを想起する。ピアノ、絃という山下達郎「FOREVER MINE」も」

・アルバムトータルの感想

kenzee「これは大作だったね。これ出したらあと3年ぐらいサボってもいいだろうというぐらいの充実作。「シャッター」「キラキラ」「雲は白リンゴは赤」の3曲だけで2000円ぐらいの価値がある。「あられ」「瞳」のバラードも捨てがたい。しかし、こんな充実した仕事を残しているのに未だ「花火」「カブトムシ」の人というイメージが離れない。ミュージシャンにとって初期のイメージがいかに一人歩きするかという話だ。また、セカンドや夏服ほど売れなかったのもうなづける。こんないいアルバム、一般ピーポーのバカヤツラどもにはわかりまへんで。「キラキラ」の前のめりに突っ込んでくるグルーヴとか打ち込みじゃ再現できまへんで。アルバム1枚も聴くのシンドイ、という人でも「キラキラ」と「雲は白リンゴは赤」だけでも聴いてほしい。ここには世界的に絶滅したと言われるバンドアンサンブルがガラパゴス的に進化し、残っている。「キラキラ」をコピーしてもあの突き刺さるグルーヴにはならない。おそらく、こういうのをブランディングというのだ」

司会者「今までが芸人のレコードだとしたら職人のレコードみたいでしたね」

kenzee「とにかく曲でサヴァイブしてるのだ、ということを業界人は思い知っただろう。次回は2008年「秘密」だ。これも今回の続編のような職人芸のレコードなのだが、あんまりフツーにいいアルバムだとあんまりイチャモンつけようがなくなるので辛い」

これが2008年にでたとは信じられないんダ(植草甚一風)(aikoマラソン13、8thアルバム「秘密」前編)

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第一話

kenzee「こんなトラックバックがきたゼ」

kenzeeさん、あんたとってもいいよ!音楽評論のあり方を考える(見えるものとの対話)

私の高校生時代に多大な影響を受けた創刊間もないRockin'Onという雑誌に触れたことがあるが、kenzee氏の論はRockin'Onとの出会いと同じくらいの力で迫ってくる。

kenzee「ワー(*'▽'*)♪」

司会者「ニャー!」

XX観光第Xレジャービルって、大阪梅田駅辺りの飲み屋や風俗がひしめき合っているビルに多い名前ですよね。自分の評論をサブカルチャーと位置付けるkenzeeさんにとって自分の作品はそういう類いのものだ、っていうネーミングなんですね。妙に納得した。

kenzee「そうそう梅田の太融寺という風俗街の中に平田第二レジャービルっていう風俗のジャスコみたいな建物があったんだけど、風営法以降、タダのホテヘルビルになっちゃった。そんな黄金時代へのオマージュやね。ていうかそこに気づいた人初めて見た」

司会者「クダラナイ理由だなあ」

kenzee「嬉しい(((o(*゚▽゚*)o)))ニャー! やりがいありますワー」

niftyのcocologをブログのプラットフォームとして選んでいるのも好感が持てます。kenzee.netとか自分のドメインでやればいいのに。ブランディングしっかりすれば執筆依頼も増えて結婚相手も現れるでしょうww 有料プランがイヤなのかなぁ…。困っていれば相談に乗るのになぁ・・。

司会者「そういやコレ、なんでココログなの?」

kenzee「ブログブームも下火の2006年末、オイドンもブログを始めようカニャーと考えていた。だが、当時ブログといえば眞鍋かをりのヤツに代表される、ホントに日記的なものが主流だった。はてな論壇とか全然知らなかったし。で、このブログのこういう長文のイメージって頭の中にはすでにあったのだけど、場違いなんじゃないかと思ったんだよね。したら当時人気だった「きっこのブログ」に出会ったわけですよ。それがスゴイ長文でしかも写真とかナシの文章だけだったというのに衝撃を受けてきっこと同じココログにしようと思ったのね」

司会者「エ?きっこがきっかけなの?」

kenzee「無論、きっこのブログ自体は世間でいうほど面白いとも思わなかったのですぐ読まなくなったが、きっこみたいな見栄えになってれば大丈夫だろうと思ったのだった。以降、いろんなブログサービスやSNSとかタンブラーとかでてきたが、それ以来、まったくフォーマットのことは気にせず、7年が経った。このうっとうしい広告も有料コース(月額300円)にすれば消せるという話だが、別に気にせずやってきた。ホンットの初歩的なhtmlの知識はカジったが、CSSとかよくわからないのでデザインもズーっと一緒だ」

司会者「kenzee.netとかドメインとってやったらガッポガッポ稼げるらしいですゼ」

kenzee「マジで?」

司会者「乗り気か!「イヤイヤ、ボクは…みたいな展開かと思ってたのに」

kenzee「ボク、これ始めた時はこれでなにかにしようとかなんにも考えてなかったのですよ。ホントにブームだったからっていう。当時はブログ書いててプロになった人なんていなかったし(いたのかもしれないけど)文芸誌をナナメに読むブログっていうのも適当につけた。こんなことになるとわかってたらもっと英語とかのカッコいいタイトルにしたのに。URLのbungeishiっていうのもいまさら変えれないしねえ。kenzee.netっていうのはアレかい?イケダハヤトみたいな感じ?」

司会者「このようにこの作者はネットとかパソコンの知識がホントになんにもありません。コンテンツのことはいつも考えてるけど形式のことはホントこの7年間考えてこなかったよな。それにしてもきっことかイケダハヤトとか一番ネットの痛々しい部分で形式を考えてるんだな、キミは」

kenzee「でもいっつもドーンと「ちくしょう!転職だ」とか載るのはイヤだなあ」

司会者「スポンサーは選べばいいだろう!」

kenzee「実は…ボク…このブログのバックアップなんにもとってないんだよね」

司会者「エ?niftyが飛んだら終わりジャン!」

kenzee「それも運命ヤデ。そういえばピチカート・ファイヴってライヴ音源って残ってないらしいね」

司会者「もうちょっと管理とかしないとイカン時期にきてるんじゃないかね」

kenzee「ウーン、とにかくkobabさん、どうもありがとう!」

第二話

kenzee「レジーのブログのレジーさんが4月12日発売のQuick Japanのコラムページにパスピエのレビューを寄稿したそうだ」

司会者「ヘー」

kenzee「ワシの時代もオワリや」

司会者「アンタもヒムロックの話書いただろ!」

kenzee「そこにスゴイ世代差が…で、メインネタは柴那典さんとのメールインタビューだ」

司会者「柴さんは音楽にとどまらず、幅広いライター活動で知られている」

kenzee「しかしライター業界、柴さんのように活躍できている人ばかりではない。グズグズの人も多い。しかもライター業界、出版業界しか知らなかったりして、どうにもこうにもブルドッグ!という人が大多数を占める、というのも真実だ。この手の話を始めるとボクは止まらなくなる人間なので、もし、今、これを読んでるアナタが20歳ぐらいだったとして、いちオッサンのボクがボンヤリ未来のこの手の業界について考えてることを述べると……こういう世界ってコンテンツ(ネタ)作るヤツとそれに乗っかるヤツにハッキリ別れるってことかな。つまり、一からアイデアを出せる、企画書書ける、っていう人以外はこれからライターとか評論家とか作家とか名乗れなくなる時代がくるような気がしてるのね。つまり、うまく言えないけど中間業者みたいな仕事ってこれからどんどんなくなるわけですよ。つまり「音楽関係」とか「服飾関係」みたいなボワっとした仕事がなくなっていく。職場からコピーとったりお茶くみするOLがいなくなったように(今はかなり偉い人でも自分でペットボトルとか飲んでます罠。あるいは派遣の子にさせるか)ボワっ系の仕事がなくなる。そういう意地悪な目でイマドキのメディアの有名人を見ると、たとえな安藤美冬さんはネタないなーとかわかるわけですよ。あと雨宮処凛ってネタ生み出してんのか?とか。「訴える系セコイな」とか思うワケですよ。これからホントに「ネタ生み出してる人」と「ドサクサに紛れてそういうことになっちゃってる人」がハッキリ可視化されるんじゃないかと思ってて」

司会者「物書きで「ボクたちは弱者でこんなに辛いんだ!がメインネタになってるっておかしいとは思いますよ」

kenzee「あと人との差別化とか考えますね。QJのコラムでもいっぱい面白い人いるんだけど音楽評とかでとにかく「この新人は世間に知られてないけどスゴイんだ!こんなに新しいんだ!」で終始しちゃう人がいる。つまり「世間にあまり知られていないインディーズ、または新人」を「広くボクが伝える」という論理。ボクは初めからこの論法の逆張りを考えていた。なるべく、誰でも知ってる有名アーティストを取り上げる。(Zeebra、KREVA、BOOWY)で、ホメない。っていうかホメるホメないの別次元の抽象的な話する。でも最後はなんかイイ話だった風で終わる。みたいなことは考えてやってきた。別にボクの思想信条とかじゃなくてそうすると目立つと思ったのだ」

司会者「しかし今の話、まとめるとこれからの人は企画力と差別化が計れないとダメだ、って普通の入社式みたいな話だべ」

kenzee「真剣に考えるとベタな話になってしまうのだね」

第三話

司会者「で、aikoの続きはどうなったんだよ!」

kenzee「久しぶりに小西康陽さんの「ぼくは散歩と雑学が好きだった」を読み返してたらこんな記述にであった。

(DJイベント明けの朝、DJ仲間たちとラーメン店に入る)店内にミスチルがちょうど流れてきて、ひとしきり音楽話。自分は若い人と音楽に対するセンスがズレてきているな、と思うことしきり。たとえばaikoとか、大塚愛とか、あんな感じの節回しはもう絶対に自分の音楽からはでてこない。少し前に筒美京平先生に自分と共通点を感じる、と言われて有頂天になっていたが結局、昔の歌謡曲のメロディラインが刷り込まれている、というだけか。(前掲書335ページ)

司会者「確かに小西さんの頭のなかに「なーいーたー」(雲は白リンゴは赤)はでないでしょうな」

kenzee「メロディってその人の音楽観が如実に表れると思うんだけど、宇崎竜童とかどうしようもなく演歌なんだけど、筒美京平の作る演歌と何かが違う、みたいなことがある。小西さんはあんなに音楽に詳しいのにどこまで行っても「歌メロ」なのよ。9thで終止するとかありえない。終わる時はドミソのどれかだろ、みたいな。オシャレな分数和音はいっぱい使うけども。でもaikoぐらいになると器楽のメロディで、相当細かいとこまで行きますよ、というメロディなのだ。ボクは広瀬香美あたりから歌メロの器楽化は始まってたと思うんだけどaikoで爆発したな。しかし、年齢を重ねるしたがって、aikoも歌らしい歌メロを書くようになる。2008年発表、8thアルバム「秘密」。

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司会者「そういうツナギか」

kenzee「2008年ぐらいまでくると近過去という感じがするが、この頃になると完全にベテランの風格がある。今からちょうど5年前に発表されたアルバムを聴いていこう」

・1曲目「You&Me Both」

kenzee「全サビというか、いわゆる歌謡曲の構成ではない最初から最後までひっぱり続けるアルバム全体のイントロのような曲。ド頭から16ビートで畳み掛ける。いつになく抽象的な歌詞。この時代にトータルコンセプトアルバムか? 常に時代に逆行し、成功を収めるaikoなのだった」

・2曲目「二人」

kenzee「aiko得意の恋が始まる瞬間の不安と喜びについての歌。こういうメジャーセブンスのガレージポップみたいな世界って小西さんで言えばピチカートのフリーダムのピチカートファイヴというミニアルバムがそうですよ。

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確かゴーバンズの背の高いドラムの人とかが参加したピチカート史上もっともバンド色の強い作品。似たようなサウンドなのにナゼ、全然違う音楽に聴こえるのだろう。たとえばこのピチカートが雑貨屋でかかってもああそうかと思うが、「二人」が流れたら違和感があるだろう。この違いは何に起因するのか。先ほどのメロディの違いか。もっと本質的な文化論なのか」

司会者「ハ?この対立軸で今回引っ張るつもりか!」

・3曲目「学校」

kenzee「タワーオブパワーのアルバムの3曲目ぐらいに入ってそうなユルめのオークランドファンク。ボクは西海岸にいるときのaikoが一番好きですね。もうイギリスへはいかないでー。行っていいのはアメリカ南部だけ。「アスパラ」とか学校の話するときは70年代アメリカなんだよな。「いかに生きるべきか」みたいな話のときはロンドン、ていうかクリエイションになるんだよな。「やっぱり私はアナタが好き~トローン」みたいな歌のときは60年代のグリニッヂヴィレッジにいるわけですよ。時々パンクとかでてくるけど、基本、この要素でできてるみたい。で、学校の話なのだ。友達とか好きな人に伝えておきたいことがある。時間がもうないんだ、といういつもの焦りの歌。そういえば高校のとき、「ハラが痛い」とか言ってズル休みしてテレビ観てたら、奈良テレビで「朝のロードショー」みたいなユルーイ再放送専門の映画の番組で「高校大パニック」やっててビックリしたな。高校サボったと思ってたら高校が大パニックの映画やってるんだもん。オレも銃持って今から行かなアカンのかなとか思ったり。ま、思っただけでそのままいいともになだれ込んだが」

司会者「くだらない、本当にこの音楽評論はくだらんよ」

・4曲目「キョウモハレ」

kenzee「ユーミンさんセカンド「ミスリム」あたりに入ってそうなキャラメルママ風のオケに失恋の歌、の得意の構成。でもユーミンさんよりイビツな感じ。間奏のエレピがまんま松任谷正隆さんのような小粋な「ウーンこのギアシフトいい感じですネー」な感じだ。でもこれを小西さんとか曽我部さんとかがやるとモロ下北みたいな感じになるわけで。なにが違うんでしょうネー。これがミスリムに収録されていたら「いつも自分に言い聞かせるー」のところでシュガーベイブのコーラスが入ることになる。そういやaikoサウンドって結構ファットなオケなのになんでコーラス入れないんだろう。自分以外の声が入るのがイヤだから? そんなバカな。スムースエースみたいなコーラスグループと相性はいいと思うのだが」

司会者「だんだん無駄話が増えてくるな」

kenzee「このキョウモハレ」から「横顔」に至る流れとかスゴイと思うんですよ。この余裕感というかゆったり感というか。コレ、「ポリリズム」の年にでたアルバムヨー。茶々入れるのも虚しくなるくらい完成度が高くなってる。で、このあと「シアワセ」とか「恋道」とかくるじゃないですか。音だけ聴いたらいつの時代に作られたCDなのかわからないんですよ。75年のアルバムです、と言われてもそうかと思う。まさか配信だ、ハイレゾだ、テクノポップ再来だっていう時代に作られたと思えない」

司会者「つまり難しいんですな」

kenzee「ウン、でもこういうただ、いい音楽っていうのは批評の俎上に乗りにくい。こういうものを取り上げるのは地道な作業になってしまうからね。なので「横顔」以降はじっくりいこうと思う」

司会者「後半9曲も残しちゃったよ」

このIT時代に脳内バックアップで復元することになるとは(aikoマラソン14、8thアルバム「秘密」中編)

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kenzee「アハハ…せっかく書いたデータが消えたーアハハハ」

司会者「まだ辛うじて覚えてる間に再現しろよ」

kenzee「やっぱテキストエディタに一度下書きして、コピペが最善。いきなりココログの不安定な記事エディタに直書きしてたオレが悪い」

司会者「今までそういう事故に遭わなかったことがスゴイわ」

kenzee「必死で思い出しながら書いてマス」

ミニトークその1

kenzee「ボクはレコードジャケットがたくさん載ってるレコードガイドみたいな本が大好き。ジャンルは問わず。とにかくレコジャケならなんでも。そういう本を読みながら音楽をかけて飲んでる時が一番幸せ。最近のヒットはこの「昭和のレコードデザイン集」(P-Vine Books)。

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こんな感じの中身。

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最後のはステレオ試聴用レコード。汽車が右から左へ走り去ったり、ピンポンが左右でピンポンピンポン言うヤツとか。なかにはLRで漫才するヤツとかあったみたいね。イアヤ、昭和のレコード店へタイムスリップして行ってみたいなあ。そして久しぶりに安田謙一さんの「ピントがボケる音」(国書刊行会)読んでたらこんなコラムがでてきてビックリ。

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映画の中のレコード屋ベスト10

・「タクシードライバー」(76年米・マーティン・スコセッシ)

・「ディーバ」(81年仏・ジャン・ジャック・ベネックス)

・「風の歌を聴け」(81年ATG・大森一樹)村上春樹原作。これは観た。神戸の新興住宅地のレコ屋で真行寺君枝がバイトしてる。フラっと小林薫が入って、ビーチボーイズとかベートーヴェン第九とか3枚ぐらいサラっと買っていくのだった。子供心(高校ぐらいで観たけど)にレコードとはお目当てのレコードをなけなしのお小遣いで買う物と思っていたので驚いた。

・「女と男のいる舗道」(62年仏・ゴダール)

・「にっぽんのお婆ちゃん」(62年MIIプロ・今井正)って!左翼系映画の最右翼(どういうこと?)の監督作品にレコ屋が? どんなシーンだったのか?

・「時計じかけのオレンジ」(71年英・キューブリック)

・「ヘアスプレー」(87年米・ジョン・ウォーターズ)

・「非常線の女」(33年松竹蒲田・小津安二郎)って! 戦前の日本映画にレコ屋シーンだって?

・「スパイナル・タップ」(84年米・ロブ・ライナー)

・「エンパイア・レコード」(95年米・アラン・モイル)

というラインナップ。スゴイテーマ思いつくなあ。映画の中のライブシーンとかディスコシーンはザラにあるけど「映画の中のレコ屋」! あと、ボクの意見を付け加えると内田裕也主演「嗚呼!おんなたち猥歌」。

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この中のレコ屋店頭営業シーンは忘れられない。画像探したらありマシタ。

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無論、歌っているのはシェケナベイベー的な歌。しかし、誰も足を止めないのだった。商店街の感じもイイネ! あと井筒さんの名作「ガキ帝国」。この中で不良女子高生がレコード店でビートルズの新譜を万引きするシーンがある。まんまと成功するのだが、松本竜介演じるチャボが一部始終を見ていた。それをネタに強請るのかと思えば、ネタにデートに誘い出すというホノボノしたシーン。大阪ミナミが舞台のこの作品。ボクは千日前の古いCD屋で働いていたのだけど、あれはどこの店だったのか。あとレコ屋じゃないけど「仁義なき戦い」第一作の闇市のシーンで広能が蓄音機で浪曲聴くシーンがありますな。飲み屋で。「ワシはこれが好きなんじゃい」というシーンが好き。ホント、レコードのことを考えてると止まらないね。モチロン、音楽はiPodで聴いてるよ」

ミニトークその2

kenzee「レジーさんのブログで前回のウチの記事に登場するスムースエースにえらく反応している。ソリャ、オッチャン、スムースエース知ってますヨ! だって、昔山下達郎のラジオでかかったんだもん。無論、クリスマス・イブのカヴァーである。10年ぐらい前。その時達郎さんが仰っていたのは「ボクの一人アカペラは同じ人間の声を重ねているので本来は混ざらないんです。高周波変調といって、すぐピークレベルがくる。しかし彼らはみんな別人なのでよく混ざります」と。古今東西、カヴァー率異常に高い歌というものがあります。ボブ・ディラン「風に吹かれて」とかビートルズ「オブラディ・オブラダ」とかスティーヴィー・ワンダー「A Place in The Sun」とか。で、これらのカヴァーにありガチなのがオリジナルよりクドイ、やたら壮大なアレンジになっちゃうケースなのね。オリジナルよりシンプルになることは滅多にない。iTunesで「クリスマス・イブ」と検索するとさまざまなカヴァーバージョンを発見できるだろう。ケミストリーやBENIなどR&B歌手のカヴァーは想定済みだが、坂本冬美や弘田三枝子の打ち込みカヴァー、松崎しげるの暑苦しいカヴァーなど珍品もある。で、オリジナルのオケが割とシンプルな8ビートロックンロールなのをいいことにご多分に漏れず、トゥーマッチな解釈モノが多い。「クリスマス・イブ」のカヴァーで勝負が決まるのが例のダバダバ・コーラスをどう処理したか、だ。あの超絶一人アカペラはよく知られているようにパッヘルベルのカノンなのだが、あれはスウィングル・シンガーズのCDを参考にしている。いずれにしても真面目にコピーしても敵うものではない。となると別のやり口で逃げるしかないワケだが、その逃げ方でアレンジャーのセンスが試される。もっともガッカリなのはギターソロなど、楽器ソロで安直に逃げるパターン。またケミストリーのように下手なりにガンバってみました、系のものもつまらない。そこでスムース・エースである。

彼らのヴァージョンはまず、ピアノ一本とコーラスというオリジナルよりシンプルな編成という時点でかなりケンカ腰である。それでは間奏のダバダバの処理が気にかかるところだが誰もが「コリャ、一本取られたナ」と思うだろう、独自の歌詞による間奏。背後のダバダバも超絶テクなのに控えめだ。これは2002年のカヴァーだが、この頃ハモネプなどにわかにアカペラブームであった。そのブームからラグ・フェアなどの一発屋も登場した。ハモネプ系のアカペラとはヒューマンビートボックスに代表される器楽的なコーラスであった。そういうものは見世物としては確かに面白いのでテレビバラエティと相性が良かったのだろう。しかし、スムースエースのコーラスは決定的に声楽的コーラスなのだ。つまり、アーとかウーだけで説得力のある世界。「本当にいいコーラスっていうのは3コードでアー、ウーだけで充分に説得力を持つものなんだ」とは達郎さんの弁。ボクはあらゆるクリスマス・イブカヴァーの中でもこのスムース・エースのヴァージョンは最高峰だと考えている。このOther People's Choiceというカヴァーアルバムには槇原敬之さんの「もう恋なんてしない」も収録されているのだがその解説でヴォーカルの重住ひろこさんが「槇原さんは歌唱力界の東大・京大クラス」と書いていたのを思い出す」

司会者「人間、脳内バックアップだけでここまで再現できるものなのだね。そしてマラソンの続きだよ!」

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恒例の「コレが初回ジャケ?」

・5曲目「横顔」

kenzee「75年頃ならシュガーベイブがやっていただろう、ミドルテンポのメジャーセブンス系ポップス。こういうオハイオ・ノックスとかピーターゴールウェイといった名が浮かぶ東海岸系みたいな音楽はいくら聴いてもボク、飽きませんヨ。こういう「キラキラ」とか「横顔」みたいな音楽が好きな人に朗報! ワーナーの名盤探検隊シリーズがさらに廉価になってリマスターされて登場だ! たとえば「彼女」「秘密」のサウンドが好きで、「Jo Mama」や「Ned Dohiney」が嫌いという人がいるのか。ていうか4月14日のサンソンで達郎さんネッドドヒニーかけてたし。でもソレ!フリーソウルのコンピにも入ってる曲だよ! それ以外が聴きたかったなあ。木の温もりのロックンロール。(でもメジャーセブン)一枚1200円ですよ! あとベタだけどジャクソンブラウンとかね。聴いて損はナシ! 完全にワーナーの回し者だヨ!」

・7曲目「秘密」

kenzee「中盤のハイライトと言っていいタイトル曲。いきなりD♭からAに飛ぶ変態進行を含むにも関わらず、実に美しいバラード。aikoさんの曲、歌唱も素晴らしいが、やはりプレイヤー達の曲の解釈力、表現力あってのベストトラック。ボクは2000年代後半のaikoサウンドは佐野康夫ドラムに始まり佐野ドラムに終わると言っていいほど安定感と大らかさのあるドラム。結構手数、オカズの多いドラムにも関わらず飽くまで歌をヨイショし続ける職人魂。スティーブガットみたいなモンやね」

・8曲目「星電話」

kenzee「八神純子の歌でも始まるのかな、というくらい筒美京平調の半音マイナー進行で始まる8ビートロック。佐野さんのドラムもいつになくタムが多い。ギターも久しぶりに2本でディストーション。でもうるさくないんだ。これが2000年頃だったら、イケてないジュディマリみたいになってるとこだ。やっぱり安定のアンサンブルの勝利。一見さんの演奏ではないと誰が聴いてもわかる。「いーじわるなー」のところE♭→Am7-5と進行するところはボクの好きなローラースケートパーク進行。「ジェット」でも登場するヤツ」

・9曲目「恋道」

kenzee「久々の西海岸系オークランドファンク。8ビートのロックの次に16ビートのメジャーセブンス系のファンクがくるところが憎い。ていうか2008年に曲順に命賭けてるとこもスゴイ。ボクはこういうパターンミュージック(それぞれの楽器が別々のシンプルなパターンを提示し、複合でリズムを発生させるアレンジ手法。要するにジェームス・ブラウン)だったらなんでも好きなんだ。こういう曲を聴くとタワーオブパワーを連想せずにいられないのだけど、たとえば本物のタワーオブパワーに演奏を頼んだらどうなるだろう。たぶん、サンザンな結果に終わると思う。だって、このドン臭いリズムセクションだからaikoの歌は映えるのだ。その昔、つまり90年代初頭の話。ブレイク期のスマップのアルバムの演奏メンバーがバーナード・パーディーだったりオマー・ハキムだったりウィル・リーだったり、つまり本物のニューヨークのジャズのプレイヤーを使ったのが話題になったことがある。で、あの頃の音楽オタクみたいなキャツラは「ジャニーズとかJ-POPはクソ。ア、でもスマップだけは別(笑)」とかいうのがカッコいいという風潮があったのね。ウンコみたいな価値観である。ソリャ、スマップの「SMAP007~Gold Singer~」とかスゴイ音してますよ、本場のスムース・ジャズなんだから。しかし、果たしてスマップのメンバーにとって幸せなプロデューシングだったのか? 結局、Pの自己満足とジャパンマネーで買った音なのだ。「恋道」のドン臭さは世界でもこの、aikoリズムセクションでしか表現できないものなのだ」

昨日、ここまで書いた。

司会者「スゴイ、ほぼ再現できとる。人間の脳ってスゴイね」

kenzee「あと4曲は来週な! 松崎しげるのクリスマス・イブでも聴いて寝るワ! あと書いたデータは必ずバックアップとっておく。これ大事!」

PS…4月14日、aikoさんニューシングル「四月の雨」がiTunesほかで配信開始ですって! ま、コメントしないけどね。

さらにPS…「ハルとアキ」が抜けてる!という指摘がアリ、追記しますと……

「いつもの得意のハチロクのオールディーズ。左から聴こえるオシャレなエレピ。一昔前なら故・佐藤博さんが弾いてそうな鍵盤である。決して譜面通りに弾かなかったが、必ず要求水準を上回る回答だったという伝説のキーボーディスト。島田さんのプレイは佐藤博や中西康晴といった関西系のピアノマンを強く意識しているように聴こえるが、そこまで泥臭くなりきれないところが島田プレイの魅力なのか。「帽子と水着と水平線」以来のイントロRoland TR-808のチャカポコビートからスタートし、ストリングス、ホーンセクションまで加わる針小棒大なアレンジ。ミスチルならイラっとくるこの手のアイデアもaikoなら許せてしまう」

こんな感じ。

ラグジュアリーって経済成長のことだったんだな(aikoマラソン15、8thアルバム「秘密」後編)

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kenzee「ボクはレコードのジャケットがたくさん載ってる本が大好き。ジャンルは問わず。その手の本を音楽聴きながら日がな眺めて一杯やるのが幸せな時間だヨ。最近ヒットしたジャケ本はコレ。「ラグジュアリー歌謡」(DU BOOKS)。

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こんな中身。

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いったい「ラグジュアリー歌謡」ってなんだんねん。こういう定義のよう。

おもに80年代の、バブリーな予算と楽曲のクオリティが幸せな正比例をしている音楽。テレビドラマ、アニメ、CMなどのブラウン管から浴びた、お茶の間感覚の親しみやすさもありながら洗練された楽曲。どうしても漂ってしまう上品さ。アイドル歌謡でありながら、洋楽志向のジャパニーズ・ポップスだけがもつ、カフェではなくパーラーな感覚……。そうした要素を「ラグジュアリー」という言葉に込めたつもりです。(前掲書・まえがき(藤井陽一))

マ、言わんとするところはわかります。シティポップスとなにが違うの?という話もあるが、シティポップスには西川のりおとかパーマンの主題歌とか含まれないでしょ?ということだろう。万博期からアイドリング!!!まで実に538枚のジャケットがカラー写真で収録されているが、ほとんどがシングルジャケなのが嬉しい。かつて中古レコード屋でバイトしてたときにサンザン100円コーナーのエサ箱でみかけたジャケたち。こうやって本になるとあんなゴミみたいなレコードでも一人前に見えてくるから不思議。中学時代にブサイクとか言ってバカにしていた女子が大人になって会ったらイッパシのギャルになってたみたいな不思議感覚。一枚一枚にイチイチ解説がついてるのも好ましい。それもフリーソウルのコンピみたいな「コレ、朝方のクラブでかかるとサイコーだよね」的なナメたトークではなく、作曲、編曲、演奏、どこのスタジオで、といったデータに重点が置かれ、勉強になります。ホー、つみきみほの曲って細野・松本コンビだったのか、とか。山川恵津子×森達彦の編曲家対談も面白い。YAMAHA DX-7に代表される廉価のシンセの普及とAOR的な洋楽の流行を背景に一気に70年代の「ニューミュージック」が「ポップス」に変化していった様が印象論ではなく、現場感覚で証言される。などと、冷静を装って書いているがもっとも心に刺さったのは後半の90年代の泡沫アイドルたちのシングルCDジャケ群である。和久井映見とか裕木奈江とか観月ありさぐらいなら平然としていられるが田村英里子、山中すみか、河田純子、田山真美子、山口弘美といったB級アイドルのジャケ(なぜかソフトフォーカス多し)を見て、平然としていられるか。そのいくつかはYou Tubeで観れる。80年代後半のバブル期で金は有り余ってるにも関わらずショボイシンセサウンド。だが、そこが味だ。で、この本に続きてコレを読むのが正しい順番。「アイドル・ソング・クロニクル」(MUSIC MAGAZINE増刊)

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これは読んだ人も多いだろう。Perfumeのブレイク以降、雨後のタケノコの如くポコポコでてきたアイドルのCDガイド。そのほとんどが入手困難、というのがこのシーンの難しさを物語る。冒頭に「つんく×前山田健一対談」がある。これが先の山川・森対談と対になっているようで面白い。あの世代はいかに昔ながらのスタジオ仕事にシンセの編曲家が参入していくか、という戦いであったわけだが、つんくぐらいの世代となるとシャ乱Qのデビュー時からキーボーディスト、シンセのマニュピレーターが当たり前にいたわけで、そのままアイドルプロデュース業にスライドしていった。「バンドってある程度、形が決まってしまうでしょ?むかし吉川晃司さんが、バックバンドが替わるとポンとサウンドが変わるのを見て「これいいな」って思って、それがずっと頭の中にあったから。」(つんく×前山田対談・つんく発言)つんくはどうも編曲から音楽を捉えているフシがある。まさに「ラグジュアリー歌謡」で育った耳だ。ところが前山田までいくとハナからPCになかで完パケしてしまう世代であり、特に作・編曲と分けて考えていないようなのだ。

つんく「詞曲書くんでしょ?基本的に」

前山田「そうですね、わりと(詞・曲・サウンド)全部同時で。第一稿でアレンジまでできてる感じです」

つんく「今の子はみんなそうだよね。でもこれからそうなっていくよ。俺らみたいなんは古いパターンだから(前掲書)

なるほどな~。前山田さんの情熱大陸観たが、マンションの一室の自宅スタジオでアレンジどころか仮歌まで自分でいれてしまうのだ。おそらくももクロの一連の曲も自分で歌った版が存在するのだろう。てっきりボカロとかでデモつくってるのかと思ってたのでビックリした。この本に収録された300曲のうちのほとんどはシングル一枚で消えていったグループだったりするが、あえて「いい時代に生きてるのかな」と思えてくるのだ。また、万博の70年から2012年までをこれらの本で俯瞰して見るとロックの文脈の外にこれほど芳醇なポップ史が並走していたのか、とため息がでる。それにしてもジャケ本読みながらYou Tubeで音聴きながら盃を重ねるとあっという間に日が暮れるよ。でもボク自身はヒャダインさん以降のPC音楽には食傷気味。まさにつんくさん世代のバンドでスタジオ録音みたいな音楽ばっかり聴いてるよ。正直、ヒャダインさんみたいな音楽だと酒飲んでも旨くないんだ。ラグジュアリー歌謡はギリギリセーフなんだけどね。結局、ボクが好きな音楽って「金・酒・女」を連想させる、、またそういう市場を意識してるものなんだね。つんくさんの音楽にはボクの好きなものが大体入ってるんだ。「バンド出身」で「金・酒・女」を強く意識しているという点で。「アイドル・ソング・クロニクル」にはAV女優のシングルまで掲載されているのにそういった場末感が全然ないんだよね。それは日本社会から「場末」が消失していったことのメタファーでもあるのか」

司会者「ここで終わるたいところだが「秘密」の後半は避けられません」

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・10曲目「星のない世界」

kenzee「いつものバラード。他になんて言えばいいんだ? この人ホント、バラードでシングル切るよね。今回の「四月の雨」もバラードだし。ああそうか。前回が「シアワセ」でその前が「雲は白リンゴは赤」だからバラードは「スター」以来なのか。まあ、「スター」の続編のような曲やね。……」

司会者「ハ?もう言うことないんじゃ?」

kenzee「さっきの話にムリクリつなげると、こういう音楽は「ラグジュアリー歌謡」の末裔なのだよね。作家・編曲家がいて、プレイヤーがいてスタジオがあって、という。2008年といえばもう、前山田さんみたいなシーンはすでに形成されていただろう。あまり言われてないことだけどももクロは現在の「作・編曲一体」の最たるものだよね。でもAKBってギリギリ、前時代の「ラグジュアリー歌謡」のサウンドなのよ。90年代にでててもおかしくないタイプの音楽なのだ。ア!それでナゾが解けた! オレ、何個か前にスナックの話してたジャン! で、「ヘビーローテーション」はスナックで聞いて初めてその意味わかる、みたいなトコあるという話をした。それは「ヘビロテ」がギリギリラグジュアリー歌謡だからだったのだ。ももクロはいかによくできた楽曲だとしてもスナックには合わない。ヒャダインさんの音楽には「金・女・酒」からもっとも遠いところにあるものだ。「ヘビロテ」にはその匂いがある。高度成長からバブルにかけてあった、年収200万円の下層民にも努力すれば報われるかもしれない、という希望があった時代。いかがわしさの先にほの見える希望。そういった、キラキラしたものが「ヘビロテ」にはあったのだ。音楽のことはよくわからなくとも、経済が上を向く時代の空気を一度でも吸った者なら「ヘビロテ」が何を描いているかわかったのである。だからAKBの音楽は表層的にはダサく聴こえるのだ。それは我々日本人がダサいことを表してもいるし、またそのダサさに夢をみてしまう民族なのだということも「ヘビロテ」は露わにしてしまった」

司会者「エ?で、「星のない世界」は?」

kenzee「aikoの音楽にはあまり経済成長期特有のシミったれた場末感はない。かといってユーミンさんのような有閑階級感とも違う。なにか超然としたところがある。なにか文化とかコミュニティのなかで流通するタイプの音楽ではない。また、いきものがかりのような「オッサン・オバサン市場にまで食い込む貪欲さ」も感じられない。つまり純粋に音楽的な音楽なのだ。でも、どうしてよりによってaikoがこのような超然とした位置についたのかよくわからない」

・11曲目「シアワセ」

kenzee「印象的なピアノのイントロで始まるaiko流メジャーセブンス系16ビート。イントロメロがそのままAメロに受け継がれるというaikoにしては珍しい洋楽的な発想。いっつもイントロとAメロは別モンです!みたいなつんくみたいな考え方だったのに。A♭M7・Gm7・Fm7・E♭M7の間をひたすらウロウロするだけという一気に作ったであろうことが窺える一曲。このようなあまりヘンな進行にこだわらず直球で作った曲は大体ボク好き。ていうかやろうと思うえばできるヤン、と言いたくなる。間奏の攻めてくるドラムに70年代の全盛期の上原裕氏を想起させる」

・12曲目「ウミウサギ」

kenzee「ピアノ1本からウッドベースが加わり、サビでいつものリズムセクションとなる。こうなると彼らがジェームス・テイラーを支えるザ・セクションのように思えてくる。ウッドベースはリーランド・スクラー、間奏のボトルネックのディストーションギターはダニー・クーチに違いない。洒落たジャズ風のオブリが入る島田氏のピアノは実はクレイグ・ダーギーだろう。ガラス細工のような正確な佐野さんのドラムは実はラス・カンケルだ。昔、(93年ごろ)キャロル・キングの在籍していた幻のバンド、「The City」のCDが再発となった。なんで高校生がそんなナゾのCD買ったかというと小西康陽さんの解説だったからだ。そのなかで彼らバンドメンバーは実にリラックスしてレコーディングしているのがわかる。今日はランチはどうしよう、中華のデリにしようか、とか言いながらノビノビやっていたのだろう。 とか書いてあった。もし、タイムマシンがあったら、行くのは69年のニューヨーク。そしてシティのメンバーに聴かすのだ。「これは未来の日本のキャロル・キングとセクションの演奏だよ」と言って。彼らはなんと言うだろう」

司会者「片岡義男風でございます」

・13曲目「約束」

kenzee「ボクの好きなA→D#m7-5が入ってるから好き。「幸せも痛みも 永遠の約束」のやくーそくーで素直にBm7→Bm7onEに行かず、Bm7→C#m7→F#m7→Bm7onEと一箇所だけプログレッションが変化するところが好き。この頃のaikoのアルバムは最後に「オヤスミー」とでも言うような小品のバラードが必ず収録されていて、単行本を読み終えたような満足感が残る。このiPodの時代にあっても」

・アルバムトータルの感想

kenzee「まあ、超然としたレコードだね。ケチをつける隙のないアルバム。ライブやリハーサルを重ねて築いてきた鉄壁のリズムセクション。現行のR&Bみたいなサウンドやらないのかな?とか思ってたけどこれほどのバンドを手に入れて、あえて他の音に挑戦する必要もなかろう。おそらく10年後もこの路線でやっているだろうという定番感がある。ムリクリケチつけるならこれまでaikoのトレードマークであったヘンテココード進行とかヘンテコメロがすっかりなくなってしまったことだ。「どうして?」っていう瞬間が全然ない。実は「かばん」とか「雲は白」とかで大笑いするのもaikoの楽しみのひとつなのだが、こういうと怒られるだろうか」

司会者「あと2枚か」

kenzee「「BABY」と「時のシルエット」。長い登山だったがようやく頂上が見えてきたようだ。ホントにここまでくるとはねえ。つってもあと27曲だから全然遠いんだけど。1月から始めてまさかaikoでゴールデンウィーク迎えるとは思わなかったよ」

とうとう手をだしてしまいました。(aikoマラソンPart.16、9thアルバム「BABY」前編)

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kenzee「と…とうとうゲットしてしまいました(データを)」

司会者「ウワー、やっちまいましたか」

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kenzee「aikoインディー時代の限定盤たち! ヤフオクでもおいくら万円レベルの稀少盤たち!だが府民さんの言うように日本橋のK2RECORDさん(大阪の知る人ぞ知るレンタル屋、日本のニューウェーブやポストパンク、又、70年代のアングラフォーク類に強し)で、「だからなにがあ?」とでも言わんばかりにシレーっとレンタルされていた。無論、その希少性はお店側も熟知されていて、

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キズいかしたら人生オワリだ。時価っておいくら万円?」

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8cmのCDシングルなんて久しぶりに見た。パソコンのCDドライブに入れてでてこなくなったらどうしようとか考えながらなんとかリッピング終了。昔はコレに輪っかをつけたモノだよ。フッ、デジタルネイティブのゆとり世代にはまかるまいて」


司会者「でもレンタル料はフツーの料金というところが良心的だねえ。で、内容はどうだったの?」

kenzee「正直、この企画を始めてからというもの、スキあらば「インディー音源もヨロ」というコメントが相次いだ。そして、オレはまったくやる気がなかった。インディー音源をナメていたからだ。しかし、ナメるだけの理由はあった。ここでいう「インディー」とは言葉本来の自主制作盤という意味ではない。この時代にありガチな「すでにメジャーデビューは決まってるんだけど、いきなりaikoデビュー!とか言ってもプロモーションのしようがないので業界向けのパイロット盤的な意味合いでメジャーレーベルの中で適当なインディーレーベルを立ち上げ、メジャーデビュー前に業界的知名度を植え付けておくためのものだ。そしてある程度、業界人シンパシーを得てから満を持してデビューする。つまり、パンクとかで使われるインディーとは意味が違う。この手のインディー盤は概ね手堅いプロダクトで、そのままラジオのオンエアにも耐えられるものだ。そりゃそうだ。言葉通りの自主制作の放送できないような内容の音源、キャニオンが予算割けませんモノ。で、そのようなインディー盤ならメジャー盤のテイク違いぐらいの意味しかないし、メジャー未収録曲があったとしても、編成で落ちるレベルの完成度の低い楽曲だったのだろうと想像がつく。そのような音源を苦労して手に入れて(つくづくYou Tubeとかに落ちてませんね)チャチャ入れることもなかろう。それより彼女の今だ、と。考えていた。そして実際に聴いた。上記の予想は完膚無きまでに裏切られた。確かにパイロット盤で、業界向けの低予算デモだった。予想した通りの「インディー」だったのに、裏切られた」

司会者「「astral box」…「Do You Think About Me」、「キスでおこして」、「How To Love」、「Power of Love」、「光のさすあしもと」。「GIRLIE」…「させないで」、「イジワルな天使よ、世界を笑え」、「ハチミツ」、「犬になる」、「ロージー」「れんげ畑」。「ハチミツ」…「ハチミツ」、「ひまわりになったら」、「ハチミツ・インストバージョン」。全13曲かな、メジャーデビュー前にずいぶん曲があったものだね」

kenzee「すべての曲が今もアレンジを担当している島田昌典氏の打ち込みによる、今の豪華な生オケとは比較にならないチープな打ち込みサウンドだ。これらの盤については「BABY」「時のシルエット」が終わった後に触れざるをえない。今、ザーっとした感想を漏らすと、確かに低予算のデモテープのような音源集なのだが、すでに商品としての完成度を誇っていることを挙げたい。メジャーデビュー後に再録された楽曲も多いが、ほとんど同じアレンジで、たとえばもっとも(ボク的に)重要度最強だった「イジワルな天使よ、世界を笑え」などドラムやブラスはシンセだが、基本的なアイデアはファーストで聴ける最終版と同じなのだ。ブラスのあのフレーズなどもそのまま。驚いたことに間奏の英語のラップみたいなヤツもこのオリジナル版にすでにある。「ロージー」や「Do You Think About Me」なども同様。最終版との違いは打ち込みか生かというだけだ。つまり、なにが言いたいのかというと、「コレ、飽くまでデモなんで。細かいアレンジとか楽器の構成とか段取りとかはメジャーで再録するときにじっくり考えましょうや」といった、問題先送り的な見切り発車プロダクトではないということだ。最初に完成形があって、設計図は出来ているという姿勢。ボクはもっとセクションやキャラメル・ママのようなスタジオに入ってからウンウン考えるというようなヘッドアレンジを想像していたのだが、まったく違っていたようだ。さらに不思議なのは「キスでおこして」や「ひまわりになったら」といった後にB面などで再録された曲で、なんでファーストに収録されなかったのか問題だ。結局ファーストに採用されたのは「イジワルな天使」だけだ。結果、ファーストは8ビート主体のオールディーズ的な世界となった。さらにセカンドに採用されたのも「Power of Love」のみ。つまり、ここまで深追いしなければ(B面曲やインディー音源まで追う)「キスでおこして」や「ひまわりになったら」といった重要曲(また、後述します)を聞かずじまいで終わってしまうのだ。なんで? なんで?」

司会者「それよりキズつけない内に返却してしまいなよ。この3枚失くしたらウン万円請求されるかワカランぞ」

kenzee「それより、一応記事をアップすると2000~3000アクセスいくブログのネタがまともな手段でほとんど試聴が不可能な音源の話ってどうよ?」

司会者「相当ディープなファンでも後追いだと聴いてない人多いだろうし」

kenzee「いろいろ思うところのある音源集です」

司会者「でも、今日は「BABY」マラソンですよ」

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kenzee「2010年3月31日発表の9枚目のアルバム。年度末発売というところにキャニオンさんの必死さがうかがわれる。年度内に出荷してしまえば2009年度決算に計上できる、という6月の株主総会対策である。どこのメーカーでも年度末はこういう売り方をする。そんな大人の事情をガッチリ受け止め、締切に間に合わせ、しかも完成度も高いという、職人の鑑のようなアーティストである。相変わらず14曲入り、という過労気味の作品。

・1曲目「beat」

kenzee「ピアノのブロックコードが印象的なベンフォールズファイヴを思い出さずにいられないロックンロール。このアルバムだけ、同じエンジニア、同じスタジオなのに音像がドンシャリなのはナゼ? ま、多少ハデな音作りにしておかないと有線で流れた時にPerfumeとか嵐に負けますからね。2番でクラヴィネットが入ってくるトコが好き。スティーヴィーワンダーみたいで。ライブのオープニングにこれほどふさわしいイントロもないだろう。久々にライブを想定して書いたに違いない。しかし、イントロのブロックコードは年をとるとだんだん辛くなるだろう。難波弘之さんの弁。「イヤ~達郎の「愛を描いて-Let's Kiss The Sun-」のブロックコード、アレ、生ピアノでやるからネー。トシとると辛いヨー(こんな言い方してない)」」

・2曲目「鏡」

kenzee「「ガン見」「俺」といった歌詞表現ばかり取り沙汰される曲。ボク的には久しぶりにシュガーベイブ好きが復活したことを祝いたい。デッデーデ、デッデーデというシュガーベイブ「素敵なメロディー」、山下達郎「パレード」「君の声に恋してる」でオナジミのボーンズ・ハウを意識したようなシャッフルビートの60年代ポップス。オケもまるで60年代の職人プレイヤーたちの演奏のようです。つまりドラム、ハル・ブレイン、ベース、ジョー・オズボーンという。間奏で転調する感じがパレード感。こういう曲書く人もこの人以外考えられない。ホントはカジヒデキみたいなヤツが引き継がなアカン路線なんだけど。だから渋谷系のヤツラってアテにならないんだよな。しかし、今回しょっぱなからポップスマエストロぶり炸裂じゃないですか」

・3曲目「milk」

kenzee「スカでスタートする、ドロっとしたマイナー調のaikoらしいブルース。(淡谷のり子的な意味で)。こ、コレでシングル切りますか? 「夏が帰る」「あの子の夢」とかナンボでもシングルいけそうな曲あるのに。ワカラン。この人のシングル基準がワカラン。つーか年度末商戦のタマと考えている編成もそのへん口挟まないの? 「プッ。「milk」がシングルですって? 冗談は乳だけにしてくださいよaikoさんwwww」みたいなことは言われないのかな? ま、コンテンツの内容にまで口挟むようになれば、「ハ? D♭→G7?こんなキチガイ進行売れるワケないじゃないですか! もっとC→Am→F→G7みたいなジジババでも理解できる進行で頼みますよ!マジメにやってください!」とか言われかねないので、せいぜい口挟むのは発売日ぐらいでちょうどいい。あまり興味の持てない曲はこんなヤケクソで通り過ぎていいかナ?」

司会者「フザけすぎだろう!」

kenzee「今週またGWの後半がくるから今日はこのへんでいいでしょう? とにかくインディー盤の衝撃が強すぎて、実は「BABY」のことを考えている余裕があまりないのだ。脳内に」

司会者「じゃあ、サッサとアルバム2枚終えて、じっくりインディー盤の話すればいいだろう」

kenzee「イヤ、インディー盤聴いてやっと、この企画の落としどころが見えてきたのよ。コレ、最後どうなるのかなあ、と思って走ってきたんだけど。スパイラルライフとはよく言ったものだね。そんな初期作品に答えがあったとはね」

危険物・爆発物の収録は法律で禁止されています(aikoマラソンPart.17、9thアルバム「BABY」後編)

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kenzee「最近の演歌シーンが気になって、コレを買ってきた」

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「月刊歌謡アリーナ」。演歌界のロキノンと異名をとる(主にオレに)インタビュー記事なども充実の一冊。巻頭特集は芸歴41周年を迎えた石川さゆりの新曲「夫婦三昧・憂忌世ぶし」リリースインタビューだ。両曲とも2010年に急逝した吉岡治のペンによる詞。亡き吉岡への思いを熱く語る。そして北島三郎明治座特別公演のライブレポートも。1968年の初座長公演から年間100公演のペースで、実に4360回もの舞台を務めあげており、この調子でいけば5000回達成も夢ではない。そして気になるのはニューリリース。五木ひろしの新曲は「博多ア・ラ・モード」。モダンな楽曲の予感。ところで作詞作曲のレーモンド松屋とはどんな人物か。香西かおりの新曲もでる。「夕化粧」作詞香西かおり、作曲マシコタツロウ。マシコタツロウって一青窈の「ハナミズキ」作った人じゃ? 永井みゆきや美川憲一などビッグネームたちがぞくぞくリリースしているぞ。無論、iTunesでも配信しているがCD、カセットテープも健在だ。さらに大月みやこ芸歴50周年を振り返るロキノン2万字インタビューみたいな企画もある。コレ一冊で演歌シーン大体つかめるのだった。無論、この雑誌の読者の最大の目的は巻末の歌本である。簡単なメロディのスコアと歌詞とコード譜。ちゃんとイントロナレーションつきだ。たとえば五木「博多・ア・ラ・モード」ならこんな感じだ。

甘くささやく 博多人形 

白い吐息の長浜屋台

中洲・天神 博多の未練

恋の予感のア・ラ・モード

「エアポート」「ラブ・モード」「ア・ラ・モード」と韻を踏んでるあたり、なかなかモダンな感覚の作家である。いいぞ、レーモンド松尾。それにしてもカラオケランキングは十年一日変わらないねえ。吉幾三「酒よ」、石原裕次郎・牧村旬子「銀座の恋の物語」、木の実ナナ・五木ひろし「居酒屋」、石川さゆり「天城越え」、大川栄策「さざんかの宿」、平和勝次とダークホース「宗右衛門町ブルース」そして秋元順子「愛のままで…」…。こうも変わらないものかね。ま、この世界は変化に乏しい上に保守的だからねえ。坂本冬美のように先鋭的な音に挑戦するアーティストもいるけど」

司会者「なんで急に演歌シーンが気になったのかね」

kenzee「ボクは昔、大阪の千日前というところで演歌CDショップで働いていたのさ。なので演歌については多少、普通の音楽ライターの方より詳しい。その後、別の会社で働いていたときも先輩に連れられてスナックへ行く。そこで演歌の消費の現場を見ることになる。田舎のスナックといえば四半世紀に亘って「酒よ」を歌う続けている猛者がいるようなところだ。そして紅白やNHKの歌謡コンサートで聴く演歌は退屈だが、スナックで聴く演歌はなかなかいい、ということにも気づいた。演歌は私の音楽リスナー人生の要所要所で顔をあわせる近所のおばちゃんのような存在だ」

司会者「そういうとこ行くと「お兄さんも1曲」ってなるでしょう」

kenzee「そういう時にミスチルとか歌ってもしょうがないのでコレを歌う。

小林旭「熱き心に」。大瀧詠一作曲で安心だ。スナックはいいよ!下手なキャバクラとかでつまんない思いするよりスナックの方が面白いヨ!クリックよりスナック。コレは浅草キッドの玉袋筋太郎「玉ちゃんのスナック案内」。

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一人で入るのはなかなか怖いスナックの入門書。クラブは風営法で摘発されてもスナックが摘発されたって話は聞いたことないから安心だよ。ア、でも暴対法で摘発されたスナックはあるかもね!朝の連ドラ「あまちゃん」でも田舎のスナックのシーンが繰り返し登場するけど実際のスナックはもっと薄暗いし、もっとヌルーイ空間だよ。そのヌルさがたまらないよね。無論、音楽評論家の皆さんは連休中もロックのイベントなどの取材とかで忙しいだろうがそんな時こそスナックですよ!イマドキのスナックでどうしようもない音痴とかまずいないから。結構楽しめるのよ。座ったらいきなりもみじ饅頭がでてきたりするし。(たぶん誰かのお土産)黙っててもほっといてくれるしさ。これがキャバクラとかだとそうもいかないでしょう?」

司会者「演歌を文化史として検証した良書に輪島祐介「創られた「日本の心」神話」(光文社新書)があったね」

kenzee「アレの骨子は「今ある演歌というジャンルは古来から伝わる伝統的な文化とかではなくて70年代以降にポコっとでてきた歴史としては浅いものだ、という論。そして60年代以前の歌謡曲はわりかしモダンで洋楽的だった、と。ア、今の演歌を考察するコラムって面白いかも! たとえば五木新曲「博多ア・ラ・モード」とか様子がヘンじゃない? 演歌界の重鎮のシングルなのに韻踏んでたり、ラテンというかビギンのリズムだったり、「キラメキ夜」とかナゾの言語入ってたりストリートダンス踊るし。坂本冬美の曲にもレゲエ調があったりするし。演歌のクリエイトシーンでなにが怒ってるのか?みたいなコラム。だってそういうシーンがなかったらジェロとかありえなかったわけでしょ?」

司会者「企画書書いてみたらどうかね」

kenzee「「「演歌クリエイティブ最前線」みたいな。演歌の消費って鑑賞とカラオケというコミュニケーション消費が最初からあるわけじゃない? 今のロックとかポップスの源流をたどれば68年頃の関西フォークに始まる日本のロックの歴史となる。このジャンルには鑑賞という側面はモチロンあるわけだけど、フィジカルな消費といえばダンスぐらいしかない」

司会者「でもカラオケでミスチル歌ったりするでしょ?」

kenzee「若者向けのポップスのカラオケ消費ってカラオケボックス以降、であって、烏賀陽弘道「カラオケ秘史・創意工夫の世界革命」(新潮新書)によれば岡山の元トラック運転手の方が弁当屋を営みながらトラックのコンテナを使ってカラオケボックスを始めたのが最初とのこと。

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1985年のことだった。ここで始めてカラオケが夜の社交場文化と断絶したのだね。28年ぐらいの歴史しかないのだね。で、やっぱりカラオケボックス文化はスナックほど成熟していないと思うんだ。スナックは誰かが歌ってたらちゃんと聞くし。見知らぬ人が聴いてるので一応緊張感あるし。ただし、ひとつ言えるのはだね、カラオケボックス文化は巨大資本がチェーン化して均一化したサービスを図ることができるが、スナックだけはチェーン化ができないのだよ。コレばっかりはマニュアル化ができない。このジャンルをポピュラーミュージックの1ジャンルとして記述しておくのは意義があると思うんだね」

司会者「それはおいおいまとめていくとしてだな、aiko「BABY」マラソンの続きですよ!」

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・4曲目「Kiss Hug」

kenzee「「september」以来、連綿と続く「失った恋を見つめる、夏のワンシーン」もの。aikoは日本のAOR、つまりシティポップの系譜にあたるシンガーソングライターだが、その手の定番の「夏だ、海だ、イェー」という、開放的な夏ソングというのを今のところボクは知らない。ライドオンタイムの頃の山下達郎とか村田和人とかチューブの要素がゴッソリ抜け落ちているのだ。また、もう100曲ぐらいはaikoソング聴いたと思うんだけど「恋愛が盛り上がってるソング」というのは数えるほどしかない。「Power of Love」や「ボーイフレンド」ぐらいしか思いつかない。ほとんど、特に「夢の中のまっすぐな道」あたりからすっかり影を潜めてしまった。この人の言葉の感覚が最も冴えるのは確かに失恋、または失った恋を総括する場面においてなのだ。「夏髪が頬を切る」といったフレーズ。夏髪なんて言葉、ないじゃないですか。aikoの歌詞はマキタスポーツの作曲モノマネなどでも分析されているように平易な文体なのでマネるのは比較的簡単かしれない。しかし、平易ななかに「夏髪が頬を切る」「淡い日々よ、腐るな」といった独特の言語がまじる。ここに本物aikoの決定的な個性がある。ちなみにマキタスポーツのaikoモノマネのポイントは「ワクワク」「ドキドキ」「ユラユラ」などの擬音語を多用するとaiko風になる、ということだが、で、確かにそんな気がするのだが、ちゃんと聴いてみると驚くほどそのような擬音語はすくない。どこでそう思い込んでしまったのだろう。珍しく、イントロがサンプリングのドラムループで始まる」

・5曲目「夏が帰る」

kenzee「イントロのピアノのリフが印象的なロックンロール。簡単なことしかやってないのにカッコいいというリフの見本のような1曲。単純な8ビートロックだが、aikoバンドらしい、凄まじいグルーヴ。この手の曲になれば佐野さんのドラムの面目躍如である。Aメロで8拍目にしかスネアがこない感じとか2番のサビの直前のみ、「ドドドド」とタムが来るところとか、オカズのパターンの多さとか、絶対人力でしかだせないグルーヴ。ステップ入力であとはコピペ、というDTM作家にこの魅力がわかるか。ってふだんヒップホップとかサンプリングのドラムの音楽ばかり聴いているボクが言ってもアレだが」

・7曲目「リズム」

kenzee「いつものハチロクのロッカバラード(最近、この言葉廃れてきたね)。2番で控えめに登場するブラスの感じがいい。しかしコード担当楽器がピアノ、ギター2本で多すぎやしませんかい? このPro Toolsに代表されるデジタルプロセッシングの時代、J-POPは音数は少なめになる傾向が強い。Pro Toolsのようなデジタルメディアの場合、生楽器同士が交じり合うというよりぶつかりあうような音像になるためだ。元々aikoのキンキンした声とディストーションギターはぶつかりやすい関係にあるので片方のギターはアコギでストロークとかやりようはあっただろうに。2009年にしてはアナクロな音楽に聴こえるのはそのためか」

・8曲目「嘆きのキス」

kenzee「いつもの壮大な失恋バラード。アレ、今回のアルバム失恋の話ばっかりだな。 68年頃のビートルズのポール曲のようなタップリしたドラムにペコペコしたオルガンとディストーションギターで最後、オアシスみたいなストリングス入るっていうこの人ならもう寝てても書けるんじゃないかという世界。一応シングルなんだなア。「おやすみなさい」とか「えりあし」のシリーズのような曲。何かのタイアップみたいなので、「「えりあし」みたいな曲お願いします」というオファーなのかもしれない。最新シングル「四月の雨」のこのシリーズだ。ここまでくれば伝統芸である」

・9曲目「より道」

kenzee「タイトな8ビート。ピャーっとシンセが鳴ったり珍しい。U2みたいなアプローチ。アイルランドの感じがしますね。例によって佐野ドラムが後半雄弁に語りだす。島田さんのピアノも後半神懸ってくる。「夏が帰る」と並んでこのアルバムのベストトラックと言える。サビになると珍しく佐野さんのドラムがハイハット開きっぱなしになる。歌が終わってからエンディングに向かってピアノ、ギター、ドラムが高揚し、ピタっと終わる瞬間が堪らない」

・10曲目「指先」

kenzee「また失恋の歌ですかい? せっかくのDr.Strangeloveの根岸孝旨アレンジなのですから、もっとコテコテのロックの曲書いてくればいいのに。エンディングメジャーセブンスで終わるとかナンセンス。コレ、ドラムは佐野さんじゃないね(ブックレットが手元にないのでわからない)。スネアのチューニングが高いし。バンドマンらしい押していくタイプのドラミング。やっぱり根岸さんがアレンジの曲ってヤングな感じになるね。ホールでライブやってたのがライブハウスになったような」

・11曲目「Yellow」

kenzee「「もう別れたのに」また別れたんかい!いい加減にしいや!アレ?でも別れたのに「昔の声で」会って話してるのか。ただれた関係の歌。要は60年代ポール曲。「少し優しく私も笑おう」のA♭→B♭→Cと上昇するところがポール、いや奥田民生。「嘆きのキス」と同時期に録ったセッションであろうが、やってるメンバーも「アレ、今やってるコレ「嘆きのキス」だっけ「Yellow」だっけ?」とか本人がいないところで陰口言ってたに違いない。しかし、てっきりトイレにでも行っていると思ってた本人がトークバックの陰で陰口聞いてた!本人激怒!メンバー「イヤ~aikoさん冗談スよ!テヘヘ」といったシーンすら想起させる「いつもの」感じ。ま、ロキノンインタビューにおいても(2002年ごろ)せっかく新曲のデモテープ持ってきたのにメンバー全員、日韓ワールドカップに興じていて、激怒して帰った事件というのがあったそう。天才肌だけに気難しい人のようだ」

・12曲目「戻れない明日」

kenzee「26thシングル。ボクはこのシングルは持っている。なので、カップリングの「Do You Think About Me」と「キスが巡る」を聴いているのさ。でね、カップリングの方が好きなの。コレ、このタイプのシングルが続いてるの絶対、先様のオファーであろう。「例の60年代っぽい「ロージー」みたいな感じの曲でお願いします」とかそういうことだろう。aikoの2000年代初頭によくあったパターン。その頃に入社した新入社員が7~8年経って、タイアップの選定とかに携わる、決定権を持つようになった時に、「ゼヒ、学生時代によく聴いた「ロージー」とか「初恋」みたいなのでお願いします!とオファーするのだろう。達郎さんもやはり「ザ・山下達郎みたいな感じでお願いします。ゲットバックインラブみたいな」とかでオファーがくるようだ。で、「ずっと一緒さ」のような「ザ・山下達郎」を上げていくのだという。aikoの職人仕事である。でもB面の「キスが巡る」のほうが完全に楽しんでやってるように聴こえる」

・13曲目「あの子の夢」

kenzee「そしてNHK連ドラ「ウェルかめ」主題歌のコレがシングル化されていないことのナゾ! 「BABY」中最大の問題作であり、これ1曲で「Yellow」5曲分ぐらいの価値がある。島田アレンジにしてはよく整理された楽器構成でプレイヤーもタイトに突進してくる。イントロの「ドダドドダドド」というドラムのフィルだけで150円ぐらいの価値がある。そしてスタッカート気味に歩き出すリズム隊。まさに現代のハル・ブレインとジョー・オズボーン。ベースのミックスが大きめなのも好ましい。ギターは確かに2本いるが控えめな使い方で島田さんじゃないみたい、見事な交通整理。これがaikoだ! 連ドラ視聴者の一般ピーポーども!いきものがかりとかとは5枚ぐらいウワテだとわかったか!(アレ?いきものがかりも島田仕事だっけ?)紅白11回出場はダテじゃないワ!と思い知らせる、詞・曲・編曲・演奏がガップリ4つに組んだ奇跡のトラック。と、油断した瞬間に大変なことになる。FM7から素直にダイアグラム通りに動くポップスらしいサビ。その2番が終わったあたりから事件が起こるのである。ブリッジである。「物音に怯えて 耳を塞いだら さよならなんて簡単だけど 素直に向き合いたいな いらないものだけ捨てようかな」の進行! まず流れからの必然性のないBM7から始まりますよ! 

BM7→C#7→A#m7-5→D#7→Am7-5→D7→Gm7→C7→

Fm7→Gm7→A♭M7→B♭M7→C7

リスナーはなにが起こったのかわからないだろう。通り魔のような25秒。そして何事もなかったかのようにシレーっとFM7のサビに舞い戻るのだ。いったい「素直に向き合いたいな」などどの口が言うのだろう。まるでフダンはマジメなOLなのに週末は不純異性交遊やドラッグなどで反社会的な遊興に勤しみ、週明けには何事もなかったかのように会社の朝礼に参加している極道OLのような曲想。連ドラの視聴者は戸惑いながら言うだろう。「aikoってポップなの?キチガイなの?」(答え、両方)と。しかし、そこは慣れっこのアレンジャーとプレイヤー。「ア、いつもの「キチガイ展開ですね」と言わんばかりに佐野さんなどノリノリで地獄の25秒間、ハイハット開きっぱなしだ。この地獄の25秒だけで600円ぐらいの価値がある。60年代ポップ路線の到達点と言えるだろう。ナゼ、これが「まとめ」に入ってないのか。こんな爆発物みたいな危険物みたいな曲を収録することはまかりならんと当局からお達しがあったため、とはもっぱらの噂。アレ、でも地獄の25秒は連ドラのテレビサイズでは(ワンコーラスしか流れないため)放送されなかったのか。もったいない」

・13曲目「ヒカリ」

kenzee「いつもの八神純子みたいな70年代ロック系歌謡曲。またもブラスの使い方が控えめだね。まあボクは苦手だけど「milk」が好きな人はこの曲も好きに違いない。「イヤ、でもこういう曲はスナックに合うんじゃないの?」と思われるだろうが、実は辛い。もっとヌルーイ感じじゃないと。五輪真弓とか久保田早紀ぐらいでちょうどいいのがスナック空間なのだ」

・14曲目「トンネル」

kenzee「「天の川」のようなイントロで始まる、アルバムのエンディングを締めくくるバラード。いつもならアルバム最後は弾き語りの小品みたいな感じでおとなしく終わるところだが、今回は最後まで大バラード。右chから聴こえる島田さんのエレピが味だ。歌と一緒に会話するようなピアノ。なんだが歌にヤケクソ感が漂っているのは締切ギリギリだったとか?他の楽器の録りが押して、朝6時に歌入れしたとかそういう事情か。それも味だ」

・アルバムトータルの感想

kenzee「「彼女」「秘密」でさんざんトライ&エラーやってきたことがようやくここで花開いたという感じだ。もし、ゼロ年代ロックアルバム50選みたいな企画があったとしてこれが入らなかったらウソだ。なにしろ「beat」「夏が帰る」「より道」「あの子の夢」が入ってるんだからな。しかし当時の音楽雑誌とか「あの子の夢」聴いてなんとも思わなかったのかな。こんな爆発物が毎朝、国営放送から流れているのに気づかず、「かまってちゃん、ヤヴァイよね」とかやってたんなら、従来の音楽メディアオワタヽ( ̄▽ ̄)ノとか言われても仕方あるまい。無論、一朝一夕に「あの子の夢」ができたわけではない。このリズムセクションで重ねた蓄積がこの最終兵器を生んだのである。やはり2009年の紅白では地獄の25秒もフルで演奏されたのだろうか。とにかく「ドヤッ」と言わんばかりの攻めのアルバム。外を向いたアルバム。この路線がしばらく続けば、と思うが、次の作品の間に震災・原発事故が起こる。このようなテンションの高いレコードを作るのはしばらくは難しいだろう。次回、「時のシルエット」はやはり、意識せずとも震災後の日本を映し出したアルバムとなる。いよいよ時シルが最後だ」

司会者「ホントによくここまできたねえ」

kenzee「レーテスト・アルバムというより震災後までやっときた、という感慨が大きい。そして毎度思うことだが、あんな細い身体でよくずーっとこんだけ働いてこられたと思う。CDが売れなくなって大変なミュージシャンも多かろうが、売れてる人も大変なのだとわかる。ワーカホリックなんだろうけど、まあ、頭が下がりますね」

よいこの盗作問題入門(aikoマラソンは一回お休み)

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kenzee「前回、774さんより、「戻れない明日」パクリ疑惑について教えていただいた。とりあえず「aiko パクリ 盗作」など検索ワードでググってみると、主に2chあたりでは「戻れない明日」がビル・ウィザーズ「Lean on Me」、「ひまわりになったら」がサザンオールスターズ「当たって砕けろ」の盗作ではないかと囁かれている。まとめるとこんな感じの議論だ。

アンチaiko「「戻れない明日」って「Lean on Me」のイントロのモロパクじゃん。ホント、ガッカリ」(注・・・ただし、頭の2小節のオルガンのフレーズのみ)。そんで、デビューのきっかけとなったコンテスト出場曲「ひまわりになったら」はサザンの「当たって砕けろ」と冒頭のメロディが同じ。(筆者……注これもAメロの頭、3小節のみ) aikoってパクリまくりじゃん」

aikoヲタ「そんなのたまたま似てただけ! aikoさんが盗作とかするわけないじゃん!」

アンチ「プwwwでもaikoってサザン好きだろ? 知っててに決まってるよwww」

といった2chらしい不毛な議論がエンエン繰り返される。それとは別にボクは「シアワセ」を聴いたときに椎名林檎の「すべりだい」(デビューシングル「幸福論」カップリング曲)という曲に似てるなあ、と思ったものだ。無論、パクリだとは思わなかったが。

>そーですかー、あの程度ならパクリと恐れなくても許されるレベルなんですね。胸のつかえが一つ取れました。(前回の774さんのコメント)

別に……胸のつかえ取れないよ」

司会者「エ!とれないの? ウチ的には「こんなのパクリの内に入らないよ! ホンット、2chのヤツらってちょっと似てるからって鬼の首とったみたいに大喜びなんだから」って話すると思ってたんだけど?」

kenzee「大衆歌謡の盗作論争って昔からある。一応、音楽の歴史上、著作権法が商工業法的に最初に成立したのはアメリカで、最初にできた著作権管理団体の初代会長は「ホワイト・クリスマス」の作者でオナジミのアーヴィング・バーリンだ。彼はピアノが弾けなかったので、人差し指一本でメロディを弾き、あとのコード進行とかは助手に任せていたという。キロロのボーカルの人も同様、楽器ができないので歌だけで作曲するという。で、あのポワーンとしたキロロのピアノの女の子が伴奏をつけるのだそうだ。著作権の考え方がアーヴィング・バーリン方式で始まったので、未だに和声やリズムパターンや編曲ではなく、メロディラインのみに著作権が発生するのはこのためと言われている。wikiを確認したところ、キロロの楽曲もボーカルの玉城千春作詞・作曲ということになっている。日本における著作権の管理の考え方もこのアーヴィング・バーリン方式に準じているため、「鼻歌で曲作ってきた大槻ケンヂ・・・その鼻歌に立派なアレンジと演奏を施した筋少のメンバー・・・でも作曲印税は大槻のもの→メンバー怒りの抗議」という気の毒なケースも発生するのだ。ちなみに筋少は今では作詞は大槻個人だが、作曲は大槻ケンヂ&King-Showという共作名義となっている。つまり、法律の考え方はあくまでメロディに権利が発生するのであって、ギターのリフとかドラムのパターンとかには著作権がないという考え方なのだ。こうなると「戻れない明日」のパクリ疑惑はかなりキビしくなる。しかし、「ひまわりになったら」はどうだろう。

(E)あたしの気持ち掘り(D#m7-5)返して(G#7)みたらあの(C#m7)子のことばかり(Bm7)涙が(E7)でる「aiko「ひまわりになったら」」

(C)いの一番にと(Bm7-5)んでい(E7)きましょーむーか(Am)しーの女なんて(Em)おさらば「サザンオールスターズ「当たって砕けろ」」

冒頭の3小節まで同一のメロディ、同一のコード進行であることがわかる。ただし、「ひまわり」の4小節目のBm7→E7への展開(ドミナントマイナーセブンス→トニックセブンス)はaikoの特徴的な展開の仕方であり、ほとんどの曲に見られる。槇原さんやスガシカオにもよく見られることからこの時代の作曲家の無意識の流行だったのだろうか。翻って桑田さんや達郎さんの曲ではあまり見かけないものだ。世代的なものだろうか。話が逸れた。それでは「ひまわりになったら」はやはり法律的にも盗作とされてしまうのか。もし、桑田さんが本気で怒ってきた場合、「当たって砕けろ」のメロディと歌詞に勝手に別の歌詞をつけ、編曲したという編曲権侵害を主張することになる。ところで日本の著作権法27条は著作物を編曲する権利を著作者(桑田さん)に専有させているが、「編曲」を定義した規定はない。著作権法において「編曲」の解釈を初めて裁判所が示したのは1998年に提訴された「記念樹事件」である。(wikiを参照しよう)この控訴審の判決では「メロディーの始めと終わりの何音かが同じ」「メロディの音の72パーセントが同じ高さの音」といった「表現上の本質的な特徴の同一性」があり、これが偶然の一致という言い切るのはムリだろう、ということで小林氏の主張を認めた。服部氏は最高裁に上告したが棄却。結果、服部氏の「記念樹」の作曲は著作権法違反にあたるものと認定された。という、判例から鑑みて、「ひまわりになったら」冒頭3小節は「パクリじゃない!」と言い切るのは微妙になってくる」

司会者「でもソレ、裁判所の解釈がおかしくないです? じゃあ、ほとんどメロディ的な抑揚をもたないラップミュージックはどうなるのって問題でてくるじゃないですか。たとえばATCQ「scenario」なんてみんな使ってるし」

kenzee「だし、日本のポップミュージックの歴史も結構な時間が経ってるというのに作詞・作曲については昔から著作権で守られてきたのに「編曲」については解釈されたのがなんとたった10年前!ということにビックリだ。やはりこの控訴審でも問題の焦点をメロディに置いている。このラップ、サンプリングの時代にあってもアーヴィング・バーリンの思想が自縛霊のようにとりついているのだ」

司会者「つまり、「花火」ソックリなメロディに勝手に歌詞をつけて歌うとアカペラであっても訴えられる、でも「花火」のオケそっくりな演奏をDTMで作って、全然別のラップをつけるのは訴えられない、ということになりますかね?」

kenzee「そうだね。だって、編曲、つまりドラムのパターンとかギターのリフは著作物と認められてないんだもん、未だに。無論「花火」のCDをそのままサンプリングすれば「原盤権」でやられるが、「まるでな花火みたいなオケ」は文句言ってもシレっと棄却されるだろう。編曲は音楽を構成する重要な要素なのに。で、これは法律の解釈だけど、現場のミュージシャンはどう考えているのだろうか。2010年にでた「思想地図beta1」(コンテクチュアズ、現ゲンロン)の座談会「テクノロジーと消費のダンスークラブカルチャー、音響、批評ー(菊地成孔+佐々木敦+渋谷慶一郎)」のなかでこのような発言がでてくる。

菊地「これ(注・・・盗作)は倫理観や審美性などとリンクするとても重要な問題で、剽窃と引用の問題はもっと語られるべきだと思っています。現代というのは「こいつパクてるらしいぜ。くそうパクって儲けやがって」的な余裕のない時代ですが、本質的に大衆音楽はすべて使いまわしです。渋谷(慶一郎)さんの作品を一通り聴かせていただき、素晴らしいなと思うものでさえ、たとえばアマゾンのレビューとかに「ここからここまでは坂本龍一のパクリ」などと書かれていますよね。これは現代の音楽家なら誰しも抱えている問題で、富める一部の音楽家は、訴訟を事前に押さえ込むための弁護士を雇っていたりするのですがそういうことはネットにものを書く大衆には知らされていません。(中略)大衆音楽に限定せずとも、音楽はそもそも拡大再生産であって、素材はとても少ないわけです。オリジナリティというものは我々が思っているよりはるかに小さい。著作権侵害に関する裁判記録を散々読みましたが、ある音楽がある音楽の剽窃であり、有罪性があるということを証明するのは、法廷でどれだけ困難であるかがわかるばかりでした。

 佐々木「この曲パクリだと、それまでは陰口としていわれてきたことがネットがでてきてから不特定多数の人の目に晒されるようになってきた。実際にパクっているかは別にして今はパクリ、引用疑惑みたいなものが情報としてすぐにでやすい。」

菊地さんの「本質的に大衆音楽はすべて使いまわしだ」という発言に集約されていると思うが、「記念樹」を断罪することで誰が得するのか、tofubeatsの「水星」のシンセのフレーズはKOJI1200の「ブロウ・ヤ・マインド」を引用したものだが、このような歌メロではなく、編曲の一部であればオーケーという法解釈はもうムリがある。「水星」がセーフなら「記念樹」もセーフだろうと思うが、いかがなものか。まして「ひまわりになったら」などこれが大衆音楽である証拠のようなものだと思うのだが。このように盗作、剽窃、引用の問題はいくらやってもキリがない。ここまで書いててフト、思い出した。山下達郎さんのラジオ番組「サンデーソングブック」においてかつて、「パクリ・盗作特集」というのが2週に亘ってオンエアされたのだった。ボクはサンソンはこの15年ぐらいズーッとMDに録音して保存しているのだが、いつのオンエアかわからない。で、「サンソン 盗作特集 山下達郎」でググったら、2000年3月26日、4月2日放送においてだと判明した。そしてMD保管庫(つまり押し入れ)をゴソゴソ漁ったら、でてきましたヨ!

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もうこんなパクリの話することもないと思うのでこの貴重なオンエアを、You Tubeにアップするとボクが捕まるので文字上で再現したいと思う。13年前、未だネット文化の黎明期、無論、You Tubeもニコニコ動画もない、ダイアルアップ接続もまだまだ多かった2000年にオンエアされたラジオプログラムを再現しようと思う。13年越しのまとめブログだ」

司会者「(アレ?今日はaikoマラソンは?時シルは?)」

2000年3月26日放送TFM山下達郎サンデーソングブック「パクリ・盗作特集パート1」

山下達郎「ポピュラーミュージックの世界では昔からこの曲とこの曲は似ている、あるいは盗作だ、なんてことがよくいわれます。でも、ある曲は盗作といわれ、ある曲はオマージュ、リスペクトなどといわれる。この差はどこからくるのだろう、というそんなことを考察しながら「ヤーイ、パクリだ」とあげつらうのではなく、もうちょっと深いところを考察してみようという特集です。この特集を思い立ったきっかけは今、大ヒット中の大泉逸郎さんの「孫」という曲がありますが、これが水沢明美さんの92年の「二度惚れ酒」の盗作だなんてバカなジャーナリズムが言い始めたんですね。それで、一度このパクリ、盗作ということを考えてみようということです。まず、「孫」

そして、「二度惚れ酒」

こんなモンまでラジオ用にマスタリングするヤツ。こんなの似てるうちにも入らないという。ひとつ言えることはコレ、盗作だって言い出した人はあまり演歌が好きじゃない人でしょうね。演歌歌手の皆さんも反応は冷ややかなモンです。都はるみさんなんて「売れればいいんじゃないの?」なんて。ごもっともでございます。ところでポピュラーミュージックというのはまず、商売ですのでヒットしたパターンとかフォーミュラに偶然似る場合もあるし、お金儲けを目指して意図的、確信犯的に行われることもある。古今東西ある。まずは古典的な盗作問題で有名なヤツを聞いていただきます。1970年のジョージ・ハリスンの出世作。「My Sweet Lord」。全米No.1の大ヒットですが、これが1963年のシフォンズの「He's So Fine」。これも全米No.1ですがこれにソックリということで訴訟になりましてジョージ・ハリスンが負けました。

ジョージの言い分としては当時ヒットしていたEdwin Hawkins Singersの「Oh,Happy Day」にインスパイアされて作ったんだ、「He's So Fine」は言われるまで気づかなかった、ホントに悔しい、とのこと。まあ、アレンジこれだけ違いますしフィル・スペクターの曲でメロディはソックリ。でも音楽の傾向は全然違うという。コレ、どこまでアレかというと今は闇の中、という感じでございます。もう一つ70年代で有名なのはドアーズ。全米No.1になりました1968年「Hello,I Love You」という曲がありますがその3年前の1965年キンクス全米トップ10「All Day And All of The Night」。ソックリじゃないかという話になりましたがこれはウヤムヤになりました。

これはメロディというよりコードのパターンですね。ギターのパターンが似ているという。ことほど左様に昔から盗作という騒ぎはありました。なんで盗作とか言われるかといいますと、コレ商売ですから著作権というものがあるんですね。お金儲けに使われると困る、ということで騒ぎになるわけです。日本でも「4小節までは盗作とはいえない」とか論議があります。

このあと、Jack Holms「Dazed and Confuzed」、Led Zeppelin同名曲の話。元々フォークの曲をツェッペリン流ハードロックに展開。でもメロディは同じ。タイトルも同じ。これはパクリというべきか? CM明けで本人の曲ソックリのレン・バリー「1,2,3」「Like A Baby」。ソックリ。

日本ではこのようなおんなじ傾向とかワンパターンをネガティブに言われますが、全然悪いことじゃないんです。聴けば一発でわかるというのはその人のミュージカルキャラクターを雄弁に物語る、なによりの武器でございまして、特にブルースとかプリミティブな音楽には欠くことのできない要素であります。全部同じだったらむしろ褒められる、という。

このあと、ブルースのギタースリムの曲、3曲続く。「The Things That I Used To Do」「Bad Luck Blues」「Something To Remember」。ソックリ。

日本の場合はメロディについてとやかくいわれるわけですが、ことロックンロールについてはパターンミュージックですのでパターンとコード進行。これらも大きなファクターです。ビートルズ「Hey Jude」という曲がありますが、作曲者のポール・マッカートニーはこの曲をドリフターズの「ラストダンスは私に(Save The Last Dance For Me)」みたいな曲を作りたい、と。みたいな曲とは、コード進行がほぼ同じなのです。つまり、「Hey Jude」のカラオケで「ラストダンスは私に」が歌えてしまう。ここに目をつけましたのがキングトーンズ1981年の曲「ラストダンスはヘイ・ジュード」作曲はモチロン大瀧詠一さん。その筋ではかなり珍重されたシングル。

これで3月26日放送分は終わり。続けて4月2日放送分。

山下達郎「先週に続いて似たもの・盗作・パクリ特集パート2。最近、パクリとかオマージュとかいろんな言い方がありますが盗作とはなんだろうといういうことをちょっとマジメに考えたいと思います。先週は洋楽中心でしたが今週は邦楽中心で行きたいと思います。で、先にお断りしますと、作曲・編曲が同一人物ものを取り上げるとなにかと微妙な問題になりますので、作曲と編曲が別人のものを中心に取り上げたいと思います。これだったらどっちが悪いのかわからないのでデヘヘ。日本のロック、フォーク、ニューミュージックでもっとも有名なものの一つはですね、八神純子さんの1980年の「パープルタウン」というのがあります。これはオリコン2位まで上がった大ヒット曲なんですけども、これが同じ年のRay Kennedyの「You Oughta Know By Now」にソックリ。メロディはモチロン、アレンジまでも。なので大クレームがきまして、あとからRay Kennedy、David Fosterといった向こうの作曲家のクレジットをいれさせられて、タイトルまでいれさせられちゃった、というもの。いわくつきの1曲。

これはしょうがないですナ。わたくし同業者として今でも不思議なのはこの「パープルタウン」という曲。フックといいまして一番印象的な部分、「パープルタウン、パープルタウン」という部分はRay Kennedyの元の曲には存在しないんですね。いわゆるAメロBメロと呼ばれる部分がメロディもアレンジもソックリだという。だったらそんな、パクらないで「パープルタウン~」で1曲構成すりゃいいのに、って思いますがそれは作曲家のセンスなのか編曲家のセンスなのかイマイチわからないという。八神純子さんには「水色の雨」という曲もありますが、これもニール・セダカの曲にほとんど同じという。私の感覚とはほど遠いという。これが1980年代以降、もっとも有名な盗作騒ぎのものであります。

このあと、菊池桃子「ナイル・イン・ブルー」とIseley Jasper Isley「8th Wonder of The World」がソックリという話に続き、奥さんの曲が俎上に上がる。

山下達郎「これは身内でございますが、竹内まりや1979年のシングル「Dream of You~レモンライムの青い風」という曲がございます。この曲のシングルバージョンは未だCD化されておりません。今後もされる見込みはありません。(筆者注・・・2008年のベストアルバム「Expressions」においてようやくCD化された)なぜCD化できないかといいますとこの曲のイントロがドナ・サマーの1977年の「I Remember Yesterday」とまったく同じなんですね。これにあとで、まりや以下ディレクター、その他全員が気がつきまして・・・これも作曲家とアレンジャーが別でしてなんでそうなったのかわからないアレですけども。それでみんなで協議した結果、このシングルバージョンはボツにして、アルバムバージョンのアレンジは私にオハチが回ってきた、というそういういきさつがあります。

ま、こんなことは歌謡曲業界では日常茶飯事であります。で、先週のオンエアでたくさんハガキをいただきましたが一番興味深かったのが、チェキっ娘「ドタバタギャグの日曜日」。これは作曲者の方がミュージシャンの方で(筆者注・・・ROLLY、つまりローリー寺西)このハガキの人が彼のホームページに書き込んだんだそうです。「コレ、~の盗作じゃないかと」そしたらその人のサイトのBBSでファンの方々が猛反発したんですね。彼のファンいわく、「それは彼のセンスのよさの表れ。そんなのロックじゃ当たり前。ちゃんと元曲を消化していればパクっても構わない」さらには「過去の名曲を現代に蘇らせているのだから彼に感謝すべき」という暴論まで飛び出す始末。で、この人「じゃあ著作権はどうなるんだよ。印税は彼(ROLLY)のトコに入るんだぜ」と書き込むと「彼はお金儲けのために音楽をやってるんじゃない!」と。そんなね、アナタね、ファンの人になに言ったってムダですよ。アバタもエクボなんだから。エー、アイドル歌謡はこういったもののオンパレードでございます。この人憤懣やる方ない、と言ってますのでリスナーの方の判断を委ねてみようと思います。チェキっ娘「ドタバタギャグの日曜日」、そしてオーシャン、1971年の全米No.1「Put Your Hands in Hands」。

・・・私(山下達郎)の個人的な感想ですけども、さっきの菊池桃子聞いちゃうとなんでも許せちゃうかなあ」

このあと、ツェッペリンの「Rock And Roll」のイントロのジョン・ボーナムのドラムとリトル・リチャード「Keep A Knockin'」のドラム(アール・パーマー)が同じという話。これはアール・パーマー好きのジョン・ボーナムが意識的に叩いた。そして話はヒップホップ方面に向かっていき、Puff Daddy&The Family「I'll Be Missing You」と、サンプリング・ネタ、ポリスの「Every Breath You Take」がかかる。サンプリングの話の続きで日本のヤツを。CHARの「SMOKY」の印象的なギターのカッティングをサンプリングしたKEY OF LIFE「Motion&Emotion」。ちなみにこの時点ではまだ、キックザカンクルーの「クリスマス・イブRAP」は発表されていない。

山下達郎「2週間にわたってやってきましたが、まだまだかけたいのはあります。電気グルーヴの「Shang-Li-La」とSilvetti「Spring Rain」とか。まあ結局、コレ商売なので倫理とか道義とかいう以前に(あげつらう心理とは)ヒットに対する妬みとか嫉みとかそういう心理がないと言ったらウソになるでしょうね。2週間やりましたが、単なる糾弾大会にはならなかったという自負はあります。なかなか面白かったんじゃないかと思います。自分でもコレやって考えさせられるものがありました。お便りのなかにこんなのがありました。「モーニング娘関係のアレンジャーの人がある雑誌で「日本のJ-POPなんて90パーセントが海外のパクリ」という発言をしていて激怒した」というお便りいただきましたけども。アレンジャーがこういうこと言っちゃイケマセンね。アレンジャーが初めからこういうことを言ってたらオリジナリティとは一体どこにあるんだという話になりますが、ま、それとて私たちオジサン世代の発言に過ぎないのかもしれません。しかしこれからどうなっちゃうんでしょう。作曲するというのは、無から有を生むというのはどこからが無で、どこからどこまでが有なのか。わからなくなりますが。ま、そういうことを考えるいい機会になればと思ってこんな特集を企画してみました。今日の最後はホノボノ終わりたいのですが。ロックとかジャズとかシャンソン、なんでもそうですが音楽にはそれぞれ「型」というのがありましてメロディが似てるとかコード進行が同じ、同じじゃないとかが盗作ということとはまったく関係がないんです。それは先週の演歌のパターンの話と同じで。今日、最後にお聴きいただくのはアメリカの1959年の映画で「五つの銅貨」という有名な映画があります。ダニー・ケイ主演で。この中で3つの違う曲を「せーの」で同時に歌う。そして歌えてしまうという。要はコード進行が全部同じなんですけど、つまりこれがデキシーランド・ジャズの定型の行き方。この上に3つの違う曲。ルイ・アームストロングが歌う「Good Night,Sleep Tight」とダニー・ケイが歌う「Lullaby of Love」とドロシーというこの映画の子役の女の子が歌う「Five Pennies」を一ぺんに歌うシーンがあります。これにて似たもの・パクリ・盗作特集はお開きです。

と、このような内容であった。まず、この2000年というこの時代にはYou Tubeとか音楽配信というような便利なものはなかったので、オンエアされた音源はすべて「孫」とかも含めて達郎さんの私物のCDであった。ま、今でもそうなんだけど。ちなみにそんな山下達郎さんもイロイロ言われることが多い。「クリスマス・イブ」がトッド・ラングレンのナントカだとか、シュガーベイブ「ダウンタウン」がアイズレーのアレとか。本人いわくすべて「的外れ」ということでございます。ここで再びaikoに戻りたいのだが、「戻れない明日」のイントロなどは著作権法の観点から見れば「編曲」にあたる部分であり、また、ロックンロールにおいては「ジョニー・B・グッド」のイントロなどパブリックドメイン化しているフレーズも多いことから、これはシロでいいだろう。問題の「ひまわりになったら」だが、これはメロディとコード進行がたった3小節とはいえモロ。しかし記念樹控訴審基準からいけば「72%にわたる類似」が認められたのでマズかったわけで、4小節目以降の展開はaiko独自の世界であり、サビなど完全に桑田さんの世界から独立している、ということでシロ、ということでいかがか。しかし、「ひまわりになったら」はコンテスト受賞時からグズグズ言われることがあったそうだ。20歳の歌手志望の女の子にとってそれは心外であっただろう。また、あの性格なので我々の想像以上に屈辱であっただろうと想像がつく。「絶対ネットの連中とかにパクリとか言われない曲を作る」とキモに命じたのかもしれない。それがaiko楽曲のトレードマークとも言える、「奇矯なメロディ、奇天烈なコード進行」を生み出したのだとすれば、一体、我々は賛辞を述べるべきなのか、それとも彼女に同情すべきなのか。それほど「ひまわりになったら」は後の彼女の作風とは違い、引っかかりのない、ノビノビとした作風なのだ。ともあれ、音楽にとっては幸せなことだったと結論づけたい」

司会者「時シルわあ?」

kenzee「思わず長くなってしまったので次回だな。ま、そんなに引っ張る曲もないのでパーッと行って終わるよ。それにしても今回の記事は本当に丸一日かかってしまいました。トホホ」


時にはマジメな話もする。著作権とか風営法の話(aikoは必ず次回に!)

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その1

kenzee「先週の盗作問題のエントリーが翌日、12000アクセスを叩き出しヤシタ」

司会者「はてなブックマークにおいても221ブクマとか。瞬間風速的にアルファブロガー気分でしたな」

kenzee「まあ、そんだけひろがると本来来るべきじゃないアホの目にも止まるということで、煽りといか勘違いなコメントもワラワラ湧いてくるワケですな。代表的なヤツ。

・盗作とカヴァーの区別もついてないでやんのwww

kenzee「今回カヴァーの話してねーし、つーかフツーに区別ついてるし!バーカバーカ」

司会者「煽り耐性強いなあ」

・コード進行いくら似ててもはじめっから著作権ないっつーのwww

kenzee「だからはじめっからないっつってるだろバーカバーカ」

司会者「煽りでブログやめてく24時間営業の人とかいるのに、煽り耐性強い!」

・アレ?コイツ、レジーのヤツに似てなくね?(パクリ?)

kenzee「ガーン!」

司会者「ショーック!」

kenzee「ワシの時代オワター\(^^)/」

司会者「時代カワター\(^ω^)/」

kenzee「これは…心折れたね…」

司会者「こんな攻撃の仕方があるなんて」

その2

kenzee「で、前回の話に追記があるのだが「編曲には著作権がない」という話をしたのだが、その後、気になってドロナワ式にお勉強した。

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この本によれば、ま「編曲は派生的な著作物(「二次的著作物」と呼ぶ)として著作権法で保護される。派生的な著作物とは、音楽の場合作詞家および作曲家が創作した楽曲を編曲したときに発生します」とある。これは小説やマンガのシナリオ化、映画化においても適用される。ところが、実際には編曲者に対してロイヤリティが支払われることは希で通常、編曲作業に対する対価は一括で払われることがほとんどだという。業界用語で「トッパライ」というヤツである。このブログによれば、

従って、編曲家は「1曲いくら」で稼ぐので、よりよい編曲をすることよりも数をこなすことが重要となります。それがいいか悪いかは別として。しかし現在の音楽の利用形態において、編曲の寄与度は非常に大きいものだといえます。メロディーが凡庸でも編曲が素晴らしくて売れる作品も多数ありますし、利用形態によっては編曲のみを使う場合もあります。(例えばイントロのみの着メロなんかね)(ブログ「著作権マニア」公表時編曲について(2005年11月11日投稿))

編曲者が著作権保護を受けようと思うと、音楽出版社、作家、編曲者との間の著作権契約書に基づいて、編曲をJASRACに登録することになる。このときに編曲届を提出すると、晴れて編曲が著作権保護の対象になる。この場合のCDにおける通常分配率は、作詞家12分の4、作曲家12分の3、編曲家12分の1、音楽出版社12分の4となる。出版社が3分の1も持っていくのか、とため息がでる。山下達郎さんや矢沢永吉さんが自分とこで出版社を持っているのも理解できる。しかし、作曲家より作詞家の方がわずかでも取り分が多いというのも不思議だ。で、編曲家など、下請け業者ぐらいの扱いなのだが、しかもテキトーな出版社の場合、編曲届を提出しないケースも多く、編曲家は長い間ワリを食っていたことになる。しかし、90年代のコムロソングに代表されるカラオケ文化の隆盛に伴って法改正が行われる。これが「公表時編曲」という考え方だ。

また、1998年4月1日以降に公表された曲に関しては、編曲者の一部権利が保証されています。この制度は「公表時編曲制度」と呼ばれ、公表時編曲(著作者が初めてレコードとして発行された際に付された編曲)を行った編曲者が、カラオケ演奏料の12分の1の分配を受けられるという制度です。実際にはJASRAC会員・信託者に対し、①演奏権のうちカラオケ部分と、②通信カラオケの送信部分が分配の対象になります。(「音楽ビジネス・自遊自在」鹿毛丈司・音楽之友社)

司会者「明らかにカラオケ文化を前提にできた制度ですよね。でも、その立役者の小室さんの凋落が始まったころに制度がスタート、というのがなにか気の毒だ」

kenze「モーニング娘。をはじめとするハロプロ物など、未だ作曲者と編曲者がハッキリと別れていたので、この制度の恩恵を受けただろう。なにしろ「LOVEマシーン」などあの編曲、イントロなくして成立しないのだから。ところで盗作問題(著作権侵害)についてもこの本では触れられている。要約すると「パロディ」以外で、カヴァーのような「正当な」使用の場合を除き、ある作曲家が他人の作品の一部を使って自分の作品を作ることだ。この場合の「正当」の判断基準はいくつかあるが

①既存曲のどのぐらいの部分が使用されているか

②どのような歌詞の流れの中で使われているか

③既存曲が将来得るべき利益のどのくらいを奪われているか

などが焦点となる。実際の判断は法廷で既存曲と盗作曲を試聴し聴き比べることによってという、曖昧な基準によって判断される。つまり、裁判官とか弁護士とかエライ人たちが難しい顔しながらラジカセでJ-POP聴き比べをするのである。そんで、「ウ~ン、言われてみればよく似てるなあ」などとボンヤリと考えるというマヌケな風景が現出する」

司会者「21世紀とは思えない、田舎裁判じゃないですか」

kenzee「しかし、こんな寝呆けた大岡越前みたいなジャッジも終焉を迎えつつある。最近、TPP問題がニュース等で報道されているが、著作権問題も例外ではない。TPPとはTrans-Pacific-Pertnership、日本語で「環太平洋戦略的経済連携協定」。加盟国間の関税を撤廃し、貿易の障壁となる非関税障壁を大幅に変更し、自由貿易を推進する協定。TPP加盟によって大幅に国内法の改正が必要になる分野は21分野で、そのなかに著作権や特許権をめぐる知的財産分野も含まれている。で、ニュースで問題となるのは、この交渉が非公開であり、この情報公開の時代に秘密裏に進行しようとしているという点にある。しかし、インターネット社会。ネット上に米国条文案がリークされている。それによると、米国はTPPを用いて知的財産権の範囲を拡大して、知的財産権の侵害を困難にし、侵害行為への追求手段を強化しようとしている。そのために米国は「著作権保護期間の大幅な延長」「著作権侵害の非親告化」「法定賠償金制度の導入」などを求めている。まさに米国型のルールを合わせろ、という内容である。(福井健策「「ネットの自由」vs著作権ーTPPは終わりの始まりなのか」光文社新書を参考にした)

恐ろしいのは「著作権侵害の非親告化」で、これを制度化されれば、「aikoってサザンのパクリじゃねwww」とネット上の陰口で済んでいた問題が「2chの有志」みたいな連中に悪意でほじくり返されるということも可能となる。前回の「孫」と「二度惚れ酒」のケースのように、日本人の演歌というローカル文化圏においてはなんの侵害でもないものでも、米国型のルールを適用すると著作権侵害呼ばわりされるかもしれない」

司会者「例の風営法の問題も、今はクラブが風営法でやられてますが、TPPが来たら次、著作権でやられるかもしれないですね。クラブでプレイする曲目をマジメにJASRACに届け出をしているとは考えられないし」

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kenzee「例の風営法の本はボクは2冊とも興味深く読んだ。この著作権の問題と風営法の問題はとてもよく似ていることに気づいた。ひとことで言うと、「とっくに時代にそぐわない法律が今も現役で行使されている」という点につきる。風営法を巡る問題は編者の磯部涼さんも言うようにさまざまなレイヤーがあり、利害関係がバラバラで、利害調整で足並みが止まってしまう、ということだ。法改正というものはとにかく時間のかかるもので、平気で10年、20年かかってしまう。本気で取り組めば風営法は改正できるかもしれない。しかし、その間は法律は生き続けるので営業をストップしなければならない。だったら、下手に騒がず、近田春夫の歌詞のように「ドアをしめてりゃバレないさ」と逃げ切り作戦でいくほうがビジネスとしては正しそうだ」

司会者「kenzeeはこの間の、クラブと風営法の問題についてはどう思ってるの?」

kenzee「大阪に限って言えば、もうムリだな、という感じが正直します。磯部さんとかLet's Danceの人たちには悪いけども。大阪府は前の知事が橋下さんだったわけだが、その前の前の太田知事の頃からすでにおかしくなりかけていた。太田さんは女性知事だったこともあって、最初に手をかけたのはやっぱり性風俗だった。現在、大阪府下で店舗型の性風俗店はありえない。店舗で女性が接客するだけでアウトなのだ。この辺は荻上チキさんの本とかに詳しいが、店舗で女性がなにかサービスするだけで実は風営法ではアウトなのね」

司会者「ああ、フェラチオとかダメですよね」

kenze「イヤ、会話したりゲームしたりするだけでも本当はダメなの。それが風営法なの。だから、キャバクラも壊滅。一時、大流行したガールズバーも戦々恐々の状態だ。辛うじて合法なのはホテヘルやデリヘルに代表されるクラウド型の風俗なのね。雑居ビルの一室に受付だけがある。あるいは電話番号だけで、あとは待ち合わせするという。これも、厳密に適用すればアウトなんだろうが、店舗がないので摘発が難しいってだけ。警察の論理では現場を抑えなきゃいけないから。クラウド型風俗にはそう言う意味での「現場」がないのでね」

司会者「橋下市長は「合法的な風俗があるんだから、米兵は風俗に行けばいい」って言ってますよ」

kenzee「日本の風俗だって、ソープランドまで含めて、すべてグレーゾーンだよ。とにかく女性がお相手をしちゃいけないって言ってるんだから。あの人は弁護士らしいけど、風営法をご存知なのかな。そのグレーゾーンのホテヘルにしたって、黒人の米兵と二人っきりでホテルに行くのは風俗嬢にとって非常にリスキーな行為だというところまでイメージして仰っているのか…。荻上さんの本によれば、風俗がクラウド化することによって一見、街は浄化されたように見える。しかし、風俗嬢にとってはリスクが増大したのだ。店舗型ならコワモテの男性店員が近くにいることから客もムチャしないが、ホテルで二人っきりとなれば「本番強要」といった暴力のリスクも当然、増える。ネットカフェに入れば、個室の扉は撤去、あるいはアクリル性の透明なものになっている。アメリカ村のクラブ一斉摘発は2010年のことだけど、その前年までにこれだけの状況が前提としてあった。今思えば、あの状況でクラブだけが無傷だったことが異常だったのだ。とにかく若者が出入りする場所は今や厳しく監視と規制の目に晒されているといえよう。カラオケと飲み屋以外」

司会者「法律ってなんなんでしょうねえ」

kenzee「ちなみにボクはLet's Danceには署名していない。そんなこと言ったら原発反対デモとかそういうのにもなんにも参加してないけどさ。Let's Danceは話を都合よくまとめすぎてると思う。あれはある種の批評のテクニックに似てて、よく宇野さんがやる手法だけど二項対立にもっていくんだよね。「ダンスがしたい人間の根源的な欲望に忠実なボクたち」vs「愚かな警察、法律」という。でもこんな複雑に問題が折り重なってる話をそこまで単純化するのはタチの悪い政治家の手口と変わらないもの。「自民党をぶっ潰す」とかと同じにしか見えない。「ダンスしちゃダメだなんて一言も言ってないだろ」でスルーされるのは目に見えてる。溜飲は下がるかもしれないけど、現実的に物事を動かせるとは思えないな。風営法がない社会、を想像すればわかる。自分の家の隣にクラブができて夜中じゅう、黒人だかイラン人だかそのへんウロウロするのだ。騒ぐアホもでてくる。そんなの怖いに決まってるのに、純粋まっすぐ君的に盛り上がるのはどうかと思うな」

司会者「じゃあ、これからホントに踊りたい人はどうすればいいの?」

kenzee「店舗構えて、大音量で夜通し音楽をかけて、躍らせて、酒類も提供する営業なんて、こんな駅のホームでタバコも吸えない時代にどう考えても不可能だと思う。ホントに踊りたかったら、近所の公民館とか借りて踊ればいいと思うな。ラジカセかけて。1000円ぐらいで借りれるでしょ、確か」

司会者「ヒドイなー」

kenzee「それも抵抗だと思うよ。これからは抵抗して生きていくんですよ。コミュニケーションはすべてSNSで済ます。飲みにはいかない。家で飲む。庭で踊ればいいんですよ、ヘッドフォンつけて。金を使わないのも抵抗ですよ。この1週間、ナゼか法律のことを考えていたんだけど、風営法とか著作権法とか、あと労働法だね。誰を守って、誰を幸せにするのか」

司会者「私、橋下発言については、そんなマズかったかなーと思ってて。「性欲はちゃんと発散させろ、保健体育の教科書みたいなこと言っててもしょうがないだろ」ってのは同意ですよ」

kenzee「アレ、基地内にクラブを作って発散させろ、って言ってたら世間の受け止め方の違ったかもなあ。幸か不幸か日本のDJってほとんどがUS志向だから仕事の斡旋もできるし「クラブ積極的支持の橋下」アピールになるし一石二鳥だったのになあ。あの人、市長選のときにやっぱりアメリカ村のクラブにも演説に行ってるの。そのとき若者からクラブ問題どう思う?って聞かれて、答えた。「大阪都構想の一つとして経済特区を作ろうと思ってる。そこにカジノとかを集めようと考えている。無論、クラブも同様だ」と。これは全然目新しい構想ではなくて、2005年にavexが「ディスコ特区」を都に申請している。で、警察庁におもっきし反対され終了、と相成ったが、仮に特区ができたとしても、その地域外のクラブの違法性が強調されるという結果も招くだろう、と今ではそれを蒸し返す者はいない」

司会者「あの人の好きな風俗じゃなくて「オレはクラブやディスコを支持する!」って言ってたら、結構今、追い風吹いてたかもしれないのに。チャラチャラした格好のタレント時代の橋下をみんな知ってるわけだから流れとしておかしくないし。ア!てことは今回は「時シル」わあ…」

kenzee「この流れで「で、今回はaiko10枚目のアルバム「時のシルエット」…ておかしいわな。ゴメンナサイ!次回です」

恋愛辛い2.0(aikoマラソンPart.18、10thアルバム「時のシルエット」前編)

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kenzee「引き続き演歌シーンについて調べている。サブカル業界において演歌シーンは今のところ、手付かずだと思ったので。ここで言う演歌業界とはコテコテのものであって、よくサブカル文脈で使われる昭和歌謡とは違う。演歌なら(かつて演歌CD屋に勤めていた)自分にアドバンテージがあるかもしれない、と思って最近の演歌雑誌とかチェックした。そしたらもはや「コテコテの演歌業界」というイメージすら幻想であったと判明したのだ。たとえば下の画像をみていただきたい。

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これは「月刊演歌アリーナ5月号」の1ページだが「長良グループ」と言って、山川豊、田川寿美、水森かおり、氷川きよし、森川つくし、岩佐美咲、はやぶさといった豪華演歌歌手のクルーである。この豪華メンバーで全国のホールやアリーナを満杯にしているのだ」

司会者「おそらく客のほとんどは60代以上だと思うがサイリウム余裕」

kenzee「この「長良グループ 新春演歌祭り」は今年で7回目を迎える、もはやジーサンバーサンにとっては風物詩イベントなのだ。無論、これだけのメンバーが集まるのだから面白企画もある。持ち歌の交換などは当然のことながらメンバーによるバンド演奏も披露されたのだ。

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NF10(NAGARA FAMILY10)を結成。山川豊がアコギ、田川寿美がガットギター、水森かおりがトランペット、氷川がボーカル&カスタネット、森川つくしがキーボード、岩佐美咲がエレキギター、はやぶさドラム、という、どこのGIVE ME5ですか、といういいたくなるオモシロ企画。おそらくCD化はなかろう。また、客層の高さから鑑みてYou Tube等に違法にアップロードされる可能性も低い。実際に足を運ばなければ得られない体験だ。演奏されたのは「明日があるさ」だという。無論、メンバー全員のコーナーもあるので年寄りにはオナカいっぱいのショーである。また、3月21日に発売された五木ひろしのカヴァーアルバム「ブルース」には上田正樹「悲しい色やね」矢沢永吉「時間よとまれ」桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」といったロック、ポップスのカヴァーが収録されている。ま、五木といえばライヴではglobe「Departure」とか宇多田のカヴァーとかもやるので今更驚くべきではない。一体、演歌業界どうなっているのか。いわゆる暴力団的ないかがわしい世界ではなかったのか。よく考えれば北島クラスの年長者を除けば、演歌界、今やほとんどが団塊以降の世代なのだ。つまり、みんな拓郎や陽水以降、日本のロック、フォークで育った者が演歌界を担っている。そういえば吉幾三は完全にフォーク世代なのだった。そう考えるとこれはもはやサブカルチャーの一ジャンルと考えても良さそうだ。私が気づくよりいち早く、演歌業界独特の世界をカリカチュアし、お笑いへと昇華させた人物がいた。友近だ。彼女のネタで演歌歌手、水谷八重子というのがあるのだが、ホントに「芸歴40周年リサイタル」というネタ公演を全国ツアーで行ったのだ。先ごろ、DVDがでた。ツタヤでもフツーにレンタルしているので早速チェック。

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同期の門下生や昼間のヌルーイAMラジオ番組の相方、といった設定で中川家礼二、河本準一、チュートリアル徳井などと絡むのだが、本物の五木ひろしも登場してビックリする。友近らしい構築度の高いネタで、ダウンタウン世代のようなアドリブの遊びがないので時々息が詰まりそうになるが、よくできている。無論、定期的にこの業界、若い女性歌手もデビューしている。「恋力」が話題(主にオレの中で)の中西りえなど要チェックだ。

AKB岩佐美咲よりボクはこの子を応援したくなるね。忘れちゃいけないジェロも意欲的にシングルをリリースしている。ところで演歌クラスタからジェロに批判的な声を聞いたことがない。たとえば「黒人に演歌の心がわかるはずがない」といった。この演歌シーンの心の広さのようなものに可能性を感じないだろうか。友近のネタにしても演歌界ナメてんのか、といった批判は少なくともネット上では見当たらない。輪島祐介さんの「創られた「日本の心」神話」によれば70年代の初頭、演歌・歌謡曲は左翼批評に便利に使われたということだったが、もはや演歌シーンはネクストステージにいるようだ。もう少し様子を見てみたい。

司会者「それではファンの心が広いことで知られるaikoマラソン、アルバムではこれで最後になりました。10thアルバム、「時のシルエット」に参りましょうか」

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kenzee「時のシルエット」。2012年6月に発売された、震災後に発表された唯一のオリジナルアルバム。やはり前作「BABY」のようなアッパーさとは雰囲気がかなり違う。静謐な世界だ。印象論では「夢の中のまっすぐな道」に近いような気がするが、果たしてどうなるか。

・1曲目「Aka」

kenzee「いきなりのハイライトである。「飛行機」以来、連綿とつづくクリエイション路線のディストーション系バラード。しかし、震災後のモヤのかかったような現実にこれは切り裂くような力がある。あらゆる価値が相対化され、宗教すらネタとして消費されてしまう再帰的近代社会に撃鉄のように振り下ろされた震災。そして原発事故。この3.11以降の現実に対し、「あなたとわたしがいる、この幸せ」という事実の重要性を力強く宣言する。Akaとは赤、REDの意だと思うが、血、という生のメタファーあるいは朝焼け、夕焼けといった繰り返される日常を指しているのかもしれない。ところで園子温監督作品「希望の国」の中で、原発事故後の危険区域の中で生活を続ける老夫婦が描かれる。夏八木勲、大谷直子演じる夫婦。最後、放射能汚染の中で自死するまでのふたりだけの日常。この曲をい聴いて、ふと、そんなことを思い出した。映画の最後で燃え盛る老夫婦の記念樹の赤い炎」

・2曲目「くちびる」

kenzee「誰もが永遠にこのグルーヴに酔っていたいと願う、ゆるやかな16ビート。Fm7→Fm7onB♭→Gm7→C7→B♭m7→E♭基本、こういうツーファイブの繰り返しの世界。これを気持ちいいと感じない人間はなにかの線が抜けている。この、ゆるやか16ビートとツーファイブの繰り返しでジワジワグルーヴが発生するタイプの音楽といえばボクは真っ先にスティービー・ワンダー「Isn't See Lovely」を思い出さずにいられない。そして山下達郎「Love Space」も。コレ、最初の頃に(もし、「くちびる」までたどり着けたら)なんて書こうとしていたかというと、「「花火」で始まったaiko16ビート路線。13年の時を経て、こんな円熟した世界にたどり着くなんて。人間的成長がまさに音楽に反映された軌跡だ」みたいなことを言おうと考えていた。ところが大間違いで、インディー盤「astral box」('97)の中に「キスでおこして」という「くちびる」のプロトタイプのような曲があるではないですか。つまり「くちびる」のような曲を、この人はいつでも書けたのだ。しかし、メジャーデビュー後に放った16ビート曲といえば「花火」であり「アンドロメダ」のような変化球であった。この、鼻歌のようなソウル。彼女にとって、何か許せる時が来たのだろうか。「くちびる」のせいで日高屋のラーメンが伸びてしまった、菊地成孔さん。「くちびる」がお好きならゼヒ、「キスでおこして」を聴くべきだ。なにもインディー盤を手に入れる必要はない。シングル「ロージー」カップリングに収録してある。ヤフオクあたりに転がっているだろう。「Power of Love」のような曲を10回も繰り返し聴くことはできないが「くちびる」なら一晩中でもこのグルーヴに身を委ねられる」

・3曲目「白い道」

kenzee「「シアワセ」タイプの、「キーがE♭なのにひたすらA♭M7→B♭→Gm7→Cm7あたりをウロウロする16ビートロック。Aメロのひたすらウラでコードチェンジするところでつまづく者も多いだろう。(ライブで)こういうビートを強調するようなアイデアって同期モノのループミュージックではまったく迫力がでない。これも人力サウンドならではの魅力を湛えた楽曲なのだった。つまり佐野康夫さんのドラムありきの曲。2曲目、3曲目の流れは完全に座付き作家。ドラマーとアレンジャーを信用した曲作りだ」

・4曲目「ずっと」

kenzee「シングルらしい曲。ここで言うシングルらしいとは「aiko得意のスケールの大きいバラード」「全体としては素直な曲」「でもしっかり「あなーたーのあたたーかいー味ー」のような素っ頓狂なトーンが現れるところで快哉を叫ぶ我々」という一連の流れのことだ。珍しくサンプリングのドラムが使用されている。ま、全部人力だとトゥーマッチになっちゃいますからね。ここでもCm7→F7→Dm7→G7のような竹内まりやバリに素直な進行に順当なメロディが載る。なんかスゴイスタンダード感のあるアルバムなのだ。そう、「astral box」の「もう完成されちゃってるやん」的なスタンダード感を感じる。ずいぶん遠回りをしたようだ」

・5曲目「向かい合わせ」

kenzee「歌が始まったと思ったらイキナシAからCに転調しちゃいますヨ。イチイチ驚きませんけども。しかし、珍しくサビがE♭→B♭onD→Cm7→B→A♭→Gm7→Fm7とクリシェで進行する。トシとると人間丸くなるんスかねエーといった感じ。そういやAメロのC→Caug→C6→C7もクリシェで「あなーーたはー傷つきー」のCm7→Cm7onB→Cm7onB♭→Cm6onA→A♭→Gm7→G♭と半音で下降していくのもクリシェ。どうしたんですかね、あんな変形学生服みたいな曲ばっかり書いてきた人が詰襟制帽みたいな曲書いて。ま、もう大御所ということなのだ」

・6曲目「冷たい嘘」

kenzee「「しかし連絡がないなあ」こんな歌いだしのラブソングがかつてあったか。横山やすしですからね。「しっかし連絡ないナー、キミしかしー。オコるでキミイ」って言う時のトーンですからね。無論、キーボーも負けずに「キミなんか、連絡ないなあ、おもてたら警察から引き取りにきてくれて連絡くるガナ。それよりマシや」ヤッサン「待ちいなあ、キーボー。あんときは悪かったワ」といった流れが脳内で自動再生されるため、あまりマジメに今まで歌詞を聴いていない。しかし「恋愛の大家」と呼ばれる現在においてもチョイチョイやすきよが顔を覗かせるのがaikoの換えのきかない魅力なのだ。イヤ、キミこれしかし、いわゆる西野カナ以降の「完全に彼氏に二股かけられてるクサイけど、それでも好きなので辛い」リリックでは。無論、テーマは同じでも西野のように着信履歴がドウタラ、電話帳に「美香夫」とか「理沙太」といったありえない名前のカモフラージュがなされてて辛い、といった具象性の強い表現でなく…」

司会者「西野カナの歌詞にそんなのあったかなあ」

kenzee「そこはaiko、こういう恋愛辛いシチュエーションになると表現の牙が光るのだった。「毎日ため息つくためだけに息を吸うなんて」「目をつぶって潜る夏の水に流してしまおうか」といった、決してギャル演歌の人々には書けないフレーズが飛び出す。そういえば「恋愛辛い」の歌詞にもとうとうLINEが登場したそうだ。ソナーポケット「片思い」。LINEの既読無視(コメントがあっても、反応しないこと)が描かれる。まだ西野のように着信拒否とかメール無視とかだったら自分の中で解決すればいいのでアレだが、ソナポケのようにSNSでやられるとコミュニティ全体にバレるので「プwwコイツ彼氏に無視されてやんの。傷ついてる今のうちにカキタレにしてしまえ」などと悪いことを考える男子も現れるかもしれない。SNSと社会の関係はまだまだ研究の余地がありそうだ」

司会者「あと、思いっきり辛い別れをしたのに、相手が結構幸せにやってる様がツイッターやfacebookを通じて情報が漏れ聞こえてくるのも辛いと思います。人間、そんなに強くないからね。特に10代ならば」

kenzee「ウン、ボクはそろそろ「別れた相手が幸せそうでムカつく殺人事件」とか起きるんじゃないかとハラハラしてるんだ。ボクはfacebookもLINEもやってないヨ。SNS疲れなんてマッピラだからね。ソーシャルネットなんてブログのコメント欄程度で充分だと思うんだ。ツイッターだけはニュースサイト代わりに使ってるけどさ。未だにツイッターの使い方がよくわからないからね。次回はパンク曲の「運命」から始めるのがキリがいいと思う。7曲一気に走るよ」

司会者「寛平ちゃんの24時間マラソンでいえば、そろそろ武道館の屋根ぐらい見えてきたという感じですかね」

これで武道館到着と考えてよろしいか(aikoマラソン、Part.19 10thアルバム「時のシルエット」後編)

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kenzee「この前、図書館で「ナンダコリャー」という本を見つけた」

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「彼らが夢見た2000年」アンドリュー・ワット、長山靖生、新潮社。初版1999年というから14年も前の本で、たぶんもう絶版だと思うんだけど、これがホントに夢いっぱいの写真集だった」

司会者「100年前、19世紀終わり頃の人類が10年後、2000年をどう予測していたか」

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kenzee「これはアメリカの雑誌「Judge」に1890年に掲載された未来の集合住宅。決して九龍城じゃありません。265階までらせん状に蒸気機関車が走る。(エレベーターがまだなかったのかな?)よく見ると映画館だの、レストランだの、美術館も入居しているみたい。絵のタッチがラピュタっぽい!」

司会者「速水さんのショッピングモーライゼーションの原型なのかな。そういえばディズニー的な何かを感じますね」

kenzee「さらに20年後に「Judge」に掲載された「未来の巨大百貨店」。

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デパートの中に劇場、ホール、ホテル、学校、野球場とかいろいろ入ってる。海辺に建っていることも興味深い。日本最大のSCといえば埼玉県越谷市のイオンレイクタウンということになるが、巨大SCとはニューヨークのような大都会ではなく、辺鄙な海辺とかにモータリゼーションで訪れるもの、とこの時代から予想されていたのか」

司会者「確かに蒸気機関車や自動車がひっきりなしに行き来している。あと、飛行船で来所することも可能なよう。でも例の上階までらせん状に走る蒸気機関車はないね」

kenzee「思想地図beta Vol.1」の速水さんのショッピングモーライゼーション年表によれば、1911年に白木屋が日本初のエレベーターを設置、1914年に三越百貨店が日本発のエスカレーターを設置、とあるのでこの頃にはアメリカではエレベーター余裕だったのだろう。あと、1907年に高速道路建設(NY)、1908年にT型フォード発売ということなので、1910年版の絵はかなり現在のショッピングモーライゼーションに近づいている」

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これはアメリカ「Puck」誌、1877年に発表されたものだが、100年後は美しい河畔の風景も広告に埋め尽くされているだろう、という皮肉を込めた風刺画。だが、現在の視点から見ればまったくその通り、というか大人しい。カード会社や通信インフラ企業の看板が見られないのはまだまだ長閑に思えるのだった。無論、ファスト風土の風景とバカでかい看板は切り離せない。130年も前に、我々の現代の生活空間はある程度予測されていたのである」

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これは、いわゆる「カウチポテト族」の原型かな。Albert Robida「Le 20e Siecle」フランス、1883年。中央に映し出されているのは「テレフォノスコープ」。家にいながらにして劇場気分を楽しめます。まだテレビもラジオもない時代に現代のオタクライフをすでに予言していたとはスゴイ。なにがスゴイといって、男性がゴロゴロ自室でオタクライフを楽しむといったらポルノ的な映像に決まっているのであって、やっぱりそんな画。昔の人の想像力YAVAI!」

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1911年、アメリカ「Life」誌に描かれた未来のオタクライフ。ネカフェが大体こんな感じだよね。部屋の引きこもって、映像(ポルノ含む)や音楽や軽食を楽しむ、という過ごし方がボクはてっきりウォークマンの登場やレンタルビデオが登場してからでてきたライフスタイルで、少なくとも80年代以降にでてきたものと思ってたんだけど、19世紀からあったんだね。そういえばドストエフスキー「罪と罰」に登場するラスコーリニコフは知性のある貧乏学生なのに一日中下宿に引きこもって、この世を恨んでいるという設定だった。社会が近代化すると男子は引きこもり化するのかな? 近代社会の発展とクルマの進化は不可分だけど、アレも平たく言えば「移動引きこもり部屋」に過ぎませんからな」

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日本モノいってみよう。これは「大阪パック」誌、1913年、戦前に発表された「将来の家屋」と題された絵。こんな文章が付されている。

地価が益々騰貴して家屋の建築に莫大な地坪を占める事を自然的に許さぬ事となり、上廓下搾式の建築が追々に流行ることになるだらう。

つまり、将来地価が高騰するので狭い土地を有効利用した建物がでてくるだろう、という皮肉。これで庭や畑や鶏小屋も確保しつつ、家屋もひろーい、というもの。土地の高騰が戦前から予想されていたというのが意外。バブルに入ってからじゃなかったんですね。そういえばマンガ「ナニワ金融道」において主人公の灰原が帝国金融社長、金畑に向かって進言するシーンがある。灰原「もうこれからの時代、土地や建物といた不動産を担保に貸付をするのは古い、ナンセンスだ。そのやり方では焼畑農業と同じで人を不幸にして焼き尽くしてオワリだ。これからは商売のアイデアとか人に投資する、という考え方もアリだろう」と、最近ハヤリの評価経済社会みたいな話をする。すると金畑社長は激怒するのだった。「そんな夢みたいなこと言ってて金貸しが勤まるのか、と。アイデアだの人だの信用できるか。今は土地バブルは終わったとか言われているが、必ず土地神話は復活する。ナゼならこんな狭い国土に1億人からが生きているのだ。土地と不動産が一番確実な担保となり得るのだ」と。ボク自身もこのネット時代に生きていながら、金畑社長の思想は正しいと思う。しかし、1945年生まれの作者、青木雄二氏がまるで梅田望夫や岡田斗司夫のようなWEB2.0みたいな思想を灰原に語らせていたのは興味深い。

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これは「日本少年」付録の「少年未来旅行双六」(川端龍子画、1918年)である。電車、エスカレーター、飛行機……。大正7年の日本人にとって、未来とは移動のことだったのか。ボクはどれだけネットが進化しても不動産と移動の問題は今後も残ると思うんだ」

司会者「で、全然話は変わってaiko「時のシルエット」の続き。

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(これが初回盤ジャケ)

2003年ぐらいからまともなインタビューをほとんど受けなくなったaikoだが、この「時のシルエット」発表時だけはナタリーにおいてロングインタビューを受けている。珍しく作曲や制作についてフランクに語っている。ボク的に意外だったのは歌メロは完璧にスコアードして臨んでいると思い込んでいたのだが、割と自由に歌って、しかもテイクによってメロディが変わるときもあるという、黒人みたいな感覚であったこと。あと、デモテープは5万円の電子ピアノ一本で作るという点。無論、まさか彼女がMIDIデータとかをギッチリ作成して、スタジオに持参するとは考えていなかったが、今でもこの原始的な方法で作っているという。つまいrオーバーダブとかナシの弾き語りってことですよね。それでどうやって「雲は白リンゴは赤」のような複雑なビートの曲ができるのだろう。あと、独特のコード感覚やメロディについては本人的に狙ってしているわけではないという話。こればかりは才能というほかない。我々が彼女の音楽に、複雑な感情や心の機微を感じ取っているのは歌詞もさることながら複雑な和声やスケールから外れたトーンからも感じ取っているからだ。今にも壊れてしまいそうなボロボロのクラシックカーのような音楽。だが、決して壊れることなく、不思議とハイウェイにも乗ってしまう無謀さ。aikoの音楽が強靭に聴こえるとしたら、あの不思議な曲作りにも遠因がある。しかし、この「時シル」は意外なほど順当なポップスであり、超然としたところがある。

・7曲目「運命」

kenzee「ムチャクチャ進行とクリシェがAメロに同時に存在するというaikoらしい、プログレパンク。こういったパンクロックの曲調で「ホントに私が愛したのはこの男?全然気持ちが通じないワ!」という逆切れ歌詞が乗る、といえば「暁のラブレター」収録の「ライン」を思い出すが、やはり曲調と歌詞が一体説がここにも見られる。ただし、同じパンク調でも循環コードとなると「Power of Love」のように「スキスキ、大好き」となる。ビートとコードの色彩のなかに言葉、というかテーマを見るのだろうか。いずれにせよ、曲ができてから「ヨッコラセ」と歌詞を載せるのではなく、曲と歌詞は一体と考えている、典型的なシンガーソングライター
タイプの作家とわかる。「音楽とことば~あの人はどうやって歌詞を書いているのか~」(P-Vine Books)のなかに小西康陽さんのインタビューが載っている。作詞作曲は若いときからずっとやってきたわけではなくて25歳のときに、急にスラスラできるようになった、という話。

25歳の時に突然、できるようになったんですよ。それまでは知識だったり、好きなコード進行だったりを蓄積しているだけだったんだけど、ある日コツというものがわかったんでしょうね。

 

そのコツというのは蓄積されていたメロディと言葉とアレンジを結びつける、いい接着剤を見つけた、みたいなことですか?

 

違う。もっと、最初からカタマリで生まれる感じ。その感覚を掴んだっていうのかな。詞も曲もアレンジも、その全部が、もう切り離せないものとして降りてくるようになった。好きな曲1曲がいきなりドンと降ってくる感じ。それまでバラバラだったものが脈絡を得たというか。いきなり脳のシナプスが繋がったというか。

カタマリというのがイイね。ヒャダインさんとかもそんな感じなんだろう」

・8曲目「恋のスーパーボール」

kenzee「「milk」のような裏打ちのブルービート。しかし、順当なポップスのコードとメロディ。
詞も「milk」の続編のように思えてくる。「milk」では告白する直前の不安について描かれるが、「恋のスーパーボール」では「あの時あなたに言ったこと失敗だったの」と後悔するさまが描かれる。大変落ち込んでいるようだが軽快なポップである。いずれにせよaikoにとってブルービートの裏打ちとは「幼き日の(うまくいかなかった)恋」のビートなのであろう」

・9曲目「クラスメイト」

kenzee「昔の恋人に再び出会って、ヤってもうたストーリー。「彼女」収録の「気づかれないように」にような穏やかな話じゃありませんな。スラーっと流れるようなポップスに乗せて歌われる痛々しいドラマ。コレ、逆だと成立しない場合があります。たとえな同窓会とか行きますと(メッタに行きませんが)、ナゼかオバハンの集団が待ち構えていたりするわけですよ。アレ?おかしいなと思ったらなんのことはない、20年前の女子高生なのね。100年の恋も覚める、ということが多々あります。そう考えるとaikoさんは全然トシとらないですね。ナタリーインタビューでよゐこ有野さんが仰るように。たぶん子供産んでないよいうのが大きいと思いますよ。子供生んだ人は変わりますワ。だからダメとかいう話じゃないんですけどね」

・10曲目「雨は止む」

kenzee「珍しく抽象的な歌詞。必ず雨は止む、と強く願う、その背景に震災と原発事故を見てしまうのは私だけか。しかし、このようなテーマを取り上げても人生応援歌的なウサン臭いポップスにならない、不穏な空気を湛えているところが彼女の資質か。そういえばaikoの楽曲は合唱に向かない。内省的な歌ばかりだ」

・11曲目「ドレミ」

kenzee「いつもならアルバムの最後にひっそりと収められそうなワルツタイムのバラード。ドラムが右chに寄せている点などファーストのような60年代ポップスのアプローチ。幼き恋への郷愁。「クラスメイト」と「ドレミ」が共存していることの不思議。作家のアルバムだとわかる」

・12曲目「ホーム」

kenzee「ストレートなメジャーセブンス系ポップ。ファースト収録「夏のマフラー」を思い出す。BからB♭に転調とか相変わらずバカラックもビックリなことやってますけども。ピーターゴールウェイとか東海岸とかシュガーベイブとか佐野元春とかそういうタームに引っかかってくる人は好きそうな曲」

・13曲目「自転車」

kenzee「アルバム最後を飾るにふさわしい穏やかなバラード。「えりあし」などと同様、前向きな別れのワンシーン。このアルバムで歌われる「昨日」や「あの日」がどうにも震災前の、比較的平和でモラトリアムだった日本の文化状況に思えてくる。無論、我々日本人の感覚など震災前と震災後で大きく変化したわけではない。相変わらず、イオンのようなSCは休日ともなれば多くの人々がクルマで訪れ、ネットは情報で溢れ、アイドルグループの脱退劇がNHKニュースで取り上げられるようなヌルイ日常を生きている。そして私はそのような状況に批判的ではない。人間、ヌルくない社会では生きられないのだから。なんせ、人間は19世紀からヌルかったのだから。楽曲の穏やかさに比して「こんな自分をいつ許せるだろう」「当分あたしを苦しめるだろう」「知らない明日がやってくることがこんなに辛いなんて」といった言葉が並ぶ。しかし、穏やかなのだ。そして再び「Aka」に聴き手は戻ることになる。こんなにも複雑な2012年にこのCDを手にした人は間違いなく幸福だったといえる」

・アルバムトータルの感想

kenzee「マジメなアルバムだったな」

司会者「いつもマジメだろう! アンタがフザけてるだけで!」

kenzee「震災を経ても、基本的になにも変わらない。いつものaikoのレコードだ。物事に動じない、海のような資質だ。でも「Aka」や「くちびる」や「自転車」を聴いてなにも思わない人はいないだろう。十分、現代に対してアクチュアルなレコードだった。なんかすごいメッセージでも隠されてるのか!とかそんなのなんにもない、いつものaiko。だから強いし、繰り返しの鑑賞に耐えれるのだろう」

司会者「ホントにアルバム10枚走りきったね」

kenzee「これが24時間テレビだったらAKBの子とかがでてきて花束とか渡してくれる場面なんだけど。「最後エライ、アッサリ終わったナー」と思ってる人あるかもしれないけど、ボクも後半、こんな地味だと思わなかったからね。彼女の15年間とは音楽業界がゴローンと変化した15年間だった。音楽の流行もそうだし、聴取環境も変化した。音楽がお金を生み出す仕組みも変化した。そういう中でいかに変わらなかったか、というのがこの人のキャリアだろう。最先端のナントカ、とかネット文化のナントカ、とか海外のナントカ、といった文化コミュニティにまったく帰属しない音楽。つまりオシャレじゃない音楽。世代的な背景すらない音楽。逆に言うと、常にはぐれている音楽なのだよ。だから個人的な音楽なんだね。この人は職人と私小説作家の二つの顔を持っているのだけど、この10枚でもっとも印象に残っているのは「夢の中のまっすぐな道」なんだよね。私小説の世界。ああいうCDは何枚も作るものじゃないし。好きな曲は「彼女」「秘密」に集中している。「時シル」前半の超然とした流れは誰もマネできないし」

司会者「豊かな聴取体験であったと」

kenzee「だって、この10枚にボク、2000円しか払ってないからねー。ツタヤってスゴイね。とりあえず当初宣言していたアルバム10枚は終わったので、あとは余興! シングルカップリング曲を何曲かと「まとめ」の新録、インディー盤を次回でやって、aikoは終了。もう余興ですから、「あの曲がない」とか言うのナシね」

aiko打ち上げ(aiko最後だよ!)

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司会者「イヤー、(_´Д`)ノ~~オツカレ様デシター。シャンパンポーン」

kenzee「どうも。ホントに10枚もいけるか、ってファーストの時から言ってたワケだけど、いつかはたどり着けるもんだね」

司会者「もう3曲目ぐらいで言ってたよ」

kenzee「ザーっと読み返すとヒドイことばっかり言ってるけど、どれも思い出深いCDばかりですよ。特にウチ、「夏服」を親の仇みたいにボロカス言ってるけどいい曲もあるからね。「心日和」とか「アスパラ」とか「ボーイフレンド」とか。今読み返すと「時のシルエット」みたいな良盤はコメントが面白くないんだよね。「秋 そばにいるよ」のような、半分ムカつきながら書いてるヤツの方が面白いという。「ギター、ウルせえなあ」とかボヤいてるところに「あなたと握手」がでてきてガーンと涙でてくる、みたいな起伏があるヤツ。辛かったのはaiko必殺の「壮大なバラード」だな。「えりあし」とか「秘密」とか「自転車」とか。「いいですネー」とか水野晴郎みたいなことしか言いようがないだろう、という。で、いつもアッサリしたことしか言わないので「kenzee、バラード嫌い?」とか思ってる人いるかもしれないけど「嘆きのキス」とか大好きなのヨ。あと、バンドの音楽に再度目覚めた。なんせこの10年ぐらい、新譜といえば機械の同期モノの音楽ばっかり聴いてきたじゃない?ボクだけじゃないと思うけど。久々にこんな、人力だけで構成された音楽をいっぺんに聴くと、ボクもドラムとかやりたいなあ、とか思いますね。今や商業スタジオでスタジオミュージシャンが集まってレコーディングすることが少ない状況だが、こういう技術継承がちゃんと行われるのか気になるね。とにかくエンジニアを目指してる若者は「彼女」「秘密」を聴くべきだと思うな。ゼロ年代後半にこんなアナログな質感が作れたということを実感してほしいね」

司会者「ヴォーカルについて話してこなかったね」

kenzee「不思議な声質だね。線の細いソプラノで倍音も少ない。でもピッチだけは異常に正確という。たしかにコーラス隊には向いてないかもね。声のキャラが強すぎて人と声が混ざらない。若い時にコーラスの訓練してきてる人は自分の倍音、コントロールするからね。小田和正のシングルで「今日もどこかで」というのがある。このカップリングにライブヴァージョンが収録されているのだが、コレ、最初から最後まで客に歌わせるというレコード史に残る暴挙でよく聴くのだけれど、小田さんもちゃんと歌ってるんですよ。でも客の合唱に混ざっていくのね。ワンオブゼムになってしまう。これがコーラスシンガーなんだね。圧倒的個性の歌手と無名の民の両方を演じれるという。ちなみにアルバム「どーも」('11)に収録されてるヴァージョンはヘンな編集になってて聴いてもムダだよ。そんなわけでaikoさんはソロシンガー以外にあまり使い道のない声質なのだ。だから歌手ってことにこだわるのかもしれないね。ロキノンインタビューでも「歌手になりたかった」、歌手、歌手っていうじゃなーい。でも完全に作家の資質じゃないですか。わからないですよね。一度、歌手全開のCDを作ったら面白いのに。つまりカヴァーアルバム。椎名林檎やクラムボンもやっているのだからそろそろ解禁してもいいと思うのだけど」

司会者「aikoとはどんな音楽家ですか?」

kenzee「とにかくいろんな要素が交差した人。黒人的なルーズな感覚と白人的な厳密さ。ブルースフィーリングとキッチリした西洋音楽の手つき。ピアノに精通しているのにディストーションギターに憧れる分裂気質。躁病みたいなポップと独りで世界と対峙するようなバラード。ヤンキー体質なのにアカデミックな教養を備えた曲作り。アメリカ南部に行く、ロンドンに行く、グリニッジヴィレッジに行く。でも決してワールドミュージックとかにはいかない。それらがなんの矛盾もなく同居していることの不思議。あと、個人的な、内省的な歌を歌う歌手。どんな有名になっても。ローラ・ニーロみたいなモンで。日本の女性ソロ・ヴォーカリストで「国民的」と呼ばれるような歌手は大抵、アルトの歌手なの。美空ひばり、天童よしみ、竹内まりや、渡辺美里…みんなアルト。つまり水樹奈々のような声質の歌手はどんだけ有名になっても国民的とは言われない。なんでかよくわからないんだけど。結局、アルト声は「みんなで手をつなごう」とか「ハンド・イン・ハンド」みたいなみんなで合唱する人生応援歌みたいなのに向いてるんだよね。コミュニティに向かっていく声というのかな。aikoのようなソプラノ声はまったく向かないんだ。個人へ、心の中のマイノリティへ向かっていく声質なんだよ。ボクはそういう歌の方が好きだな」

司会者「自分の記事を読み返してみて、どうですか」

kenzee「普通、ブログって単発ネタじゃないですか。「iPhone買ったら、とりあえず入れとけアプリ10選」みたいな単発の実用記事が一番喜ばれる。ウチみたいなグズグズ理屈を並べるようなブログはホントは嫌われるんだよ。で、「ネタがなくて」とかよく言うじゃない。このaikoマラソンは「ネタがない」が通用しないからね」

司会者「CDあるからね」

kenzee「もう走るしかないという。逆ギレしてヤメたろか!と思ってもみんな温かいのでヤメれない。地獄だ。もうこんな苦労してブログ書きたくないね。でもムリして書くと、自分でも思いもよらないこと言い出すじゃない? 「別れるときはよく話し合うべきだ」(お薬)とか。普段、ウンコチンコ言うてるヤツが。こういうのは今、読み返すと面白いな。ま、つくづく純文学傾向の人間だなと思うね。決して編集者タイプじゃないな。「夢の中のまっすぐな道」であれだけ立ち止まるとか。編集者ならあそこもっと飛ばすトコだし。ちなみにブログで人気がでるのは無論、編集者タイプの人です。レジーさんがそうだ」

司会者「じゃあ、余興にいきましょうか」

・「ゴーゴーマシン」(あなたと握手カップリング)

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kenzee「普段、ピアノ弾きらしくコードとメロディで曲作る人だが、珍しくギターのリフから起こしていったと思しき一曲。Eの「ドドデデドデッドッデド」のリフがすべて。あとはとってつけたような単純進行で奥田民生のような世界。笑ってしまったのは2番の「A・B・C・D・E・F次は」のつぎは~はホントにコードがGになるところ。これはピアノなりギターなりでコピーした人だけのナイショ特典なのか。aikoらしい遊びと実験の一曲」

「テレビゲーム」(かばんカップリング)

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kenzee「この人の曲の8割ぐらいがキーがE♭の曲なんだけど(だからギタリストは辛い)珍しく素直なCの曲。ジェームス・テイラーかポール・ウィリアムズのようなアプローチ。なんでこの曲を余興に入れようと思ったかというとCM7→F#m7-5→FM7というボクの好きなローラースケートパーク進行が入ってるから。後半、かなり長い口笛ソロがくるが、口笛でもピッチが正確! しかし女性の方から「テレビゲームしにこない?」と誘われたら、どうリアクションすればいいのか。「エ? いろんな意味でオッケーてこと?グシシ」などと考えたならばすぐ顔にでてしまうだろう」

・「なんて一日」(milk・嘆きのキスカップリング)

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kenzee「これも同様。「なーんてーいちにちなんだろうおおきくー」のところでD♭→Gm7-5→F#M7のロケパ進行」

司会者「ヘンな略し方すんなよ!」

kenzee「こういう素直な8ビートの曲でカッコいいというのが素晴らしいね。ブラックミュージックを聴きだすと誰でも「8ビートダセエ病」に一度はかかるものです。でもホントに上手い人たちがやると8ビートとはこんなに豊かだとわかる。右chのギター(後のギターソロ)が細かくストロークを刻んでいて、単純なモータウン調では終わらせない心意気。「嘆きのキス」のカップリングに「大人げないキスをすれば」という歌詞がでてくるところもaikoらしい遊びか」

・「洗面所」(花風カップリング)

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kenzee「「テレビゲーム」同様、ジェームス・テイラー的71年ぽいアプローチ。または73年ごろの細野さんのような。全編にフルートがフィーチャーされる。aiko曲でこんなにフルートがピロピロいってる曲も珍しい。例によってG♭→Gへと半音転調するのでフルートの人は苦労しただろう。で、誰が吹いてるのかなと思ってシングルのブックレット見たら演奏者のクレジットがない。こういうのはちゃんと載せておいてほしいニャー。「洗面所のガラスのコップが壊れた。形あるもの必ず壊れる」という一休さんのようなテーマ。で、ここを起点に一気に「恋が壊れても、思い出は永遠」的なaiko詞に突入する。これが彼女の作詞法なのだろう。「テレビゲームしにおいでよ」からなんとか拡げる、的な。それにしてもフルート誰?」

・「恋愛」(星のない世界カップリング)

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kenzee「「恋愛」というそのものズバリのタイトルで、Bm→F#mG→GonAというザ・歌謡曲なイントロ。やっぱりaikoにとって恋愛ってマイナーコードなんだね。これがユーミンさんだったらCM7→FM7みたいなオシャレなことになる。マ、オシャレなヤツの言うことなんか信用できませんヨ。ベタな8ビートのなかに、「つらーいのひとーことでー」って譜割りがでてくるじゃないですか。こういうのがでてくると「ああ、ミスチル以降だな」と感じる。「デーンデ、デーンデデデーン」に対して、80年代だったら「きみーが、すーきだよー」みたいな(例、あくまで例です)8で割ると思うんですよね。16分割で言葉ハメるのが実に98年組らしい感覚。ところで小田和正さんの「まっ白」という曲を聴いてたら、サビで「なにもーかもーまっしろーにーいーしてー」って16分割歌詞が登場する。8分割で30年以上やってきた人が、ミスチル以降の感覚を取り入れててスゴイなーと思ったのだった。そうかと思えば槇原敬之さんのように、あんなに複雑なオケ作るのに歌は決して8以上に細かく割らないという人もいる」

・「ジェット(再録ヴァージョン)」(まとめⅡ)

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kenzee「ファースト収録の「ジェット」の再録。aikoは何度も初期の曲の再録版を発表しているが、オリジナル版のアレンジや段取りを大きく変更することはほとんどない。(相合傘のようなケースもあるが)無論、キーも同じ。サンプリングビートだったドラムを超絶佐野康夫ドラムに変更に(だと思う。またもクレジットなし。ベスト盤購入者などそんなの気にしないだろうとでも?)、ギターもパワーコードで刻んできます。若干リズムも走ってる感じがイイ! ライブで育った曲だとわかる。この版を聞いてからオリジナルを聴くとノンビリして聴こえるヨ。ただし、ドラムのフィルとかは当時のサンプリングから引っ張ってきたりしてるんだよね! 99年のサンプリングデータを残していた島田さんに拍手。他愛もない遊びのようだが、この2曲が同一プロダクトによる親子曲だという証拠でもある」

…これが最後の曲です…

・「Do You Think About Me」(インディー盤「astral box」('97)収録。シングル「戻れない明日」('10)再録)

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kenzee「アマチュア時代を除く、最初のインディー盤の1曲目に収録された、気だるいR&B。「astral box」「ハチミツ」「GIRLIE」すべてのインディー盤が島田氏の簡素な打ち込みオケと若々しいaikoの歌とコーラス、というシンプルな世界だ。後にたぶん国内最高峰の強靭なリズムセクションの中で歌っていくことになると知ってか知らずか驚く程伸びやかな歌声。このたった5曲収録のミニ・アルバムだが、後のaiko世界をすべて予言しているようで興味深い。「Do You…」のR&B、「キスでおこして」の歌謡曲としての完成形、「Power of Love」の一般的aikoイメージの代表的なハイテンション・ポップ。「Aka」まで連綿と今も続いているハチロクビートの世界の原型「How To Love」、そして「夢の中のまっすぐな道」に繋がる内省的世界の原型のようなバラード「光のさすあしもと」。とくに「光のさすあしもと」はこの時期にしか書けない、青春に別れを告げるような、若者が世に出ていくときの心情を描いた傑作である。無論、現在の成熟した彼女がこれをセルフカヴァーするのはさすがに気が引けるかもしれない。「astral box」に出会った者だけの特権ということにしよう。「Do You Think About Me」。イントロの「ピョイヨーヨヨイヨ」というシンセのフレーズがリズムが加わると実はウラから入るとわかるという、ビートの遊びから始まる。恋愛に疲れ、老成したような世界を20歳そこそこの女の子が背伸びして気だるく歌う様がインディーらしい。再録版では素直な歌唱で、新曲といわれても信じてしまう。オケも今のリズムセクションで豪華だ。だが。インディー版の簡素な世界の方が魅力的に聴こえるのはナゼか。コレに限らず、再録曲に関してボクはオリジナルの簡素なインディー版の方が圧倒的に好きだ。(個人的な好みの話だと思って聞いて欲しい)「イジワルな天使よ世界を笑え」のようなメジャー版の人力プレイでなければ意味がないような曲でもインディー版のシンセの打ち込みの方が魅力的に聴こえる。aikoさんにしてみれば「ヲイヲイ、なんのために予算使って、手間暇かけて再録してると思ってんだ」てなもんだろうが、しょうがないのである。そしてこれだけヘリクツ並べてきたボクでも説明できない。唯一思い当たるフシは、「念力」が入っているからではないかな、ということだ。かつて山下達郎さんのラジオ、サンデーソングブックの恒例企画(今年からなくなった)お正月の大瀧詠一さんをゲストに迎えての新春放談。いつだったかは忘れたが達郎さんがこのような話を大瀧さんに相談するのである。

・シングルといえばタイアップの関係でギチギチのスケジュールで、大概最後の歌入れは充分な時間をとれないまま、ゴーせざるをえなくなる。それで歌が納得いってないシングルも結構ある。ベスト盤に収録する時に、チャンスとばかりに歌をやり直そうとしたことがある。(後にその曲は「さよなら夏の日」であると判明)そして万全ののコンディションと十分な時間をとってテイクを重ねた。ところが何度歌っても、シングル版の、徹夜明けで朝の6時頃にヘロヘロの状態で歌入れしたヤツの方がデキがいい。結局、ベスト盤には元の版を収録した。どうしてオリジナルに勝てなかったのか。

大瀧さんの回答「それは、(オリジナル版に)「念力」が入っていたのだろう。念力って、「今の心」って書くんだよね。「今の心」がはいっちゃったんだよ。ソリャ、あとでやり直したってムダだよ。

達郎さん「(鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔して)ハアア…?」

aikoインディー版も同様、「念力」が入ってしまったのではないか。再録版が勝てないワケである。そう考えると音楽の価値とはなにか、というムズカシー問題にブチあたる。とにかく、3枚のインディー版には97年~98年にかけての無名の歌手の「念力」が真空パックされている。お小遣いを貯めて手に入れる価値は十分にある。(何万円するのか知りませんが)ところで再録の「Do You Think About Me」はバンドでの演奏なので印象がまったく違う。ただし、最後に例のイントロ、「ピョイヨヨーヨヨイヨ」がたった一度だけ登場する。ほんの1秒か2秒の出来事だ。このフレーズの登場で「この「Do You Thnk…」はあの「Do You Think…」の子供なのだ」とファンならわかる。楽曲とともに聴き手も成長したのだ。なにしろ13年の時を経ている。島田氏のささやかなサプライズである」

これで終わり!」

司会者「これで終わりかー!」

kenzee「スイマセン、「水玉シャツ」できませんでした、「ココア」できませんでした、「ポニーテール」できませんでした、「キスが巡る」できませんでした、まとめの「二時頃」「れんげ畑」できませんでした、「あの子へ」できませんでした、「カケラを残す」「甘い絨毯」できませんでした!キリないワ!おしまいおしまい、引越し引越し!」

司会者「長いあいだお付き合いいただいてありがとうございました!」

kenzee「次からなにして生きていこうかネー?」

酒が飲みたい夜は…(もう酒、やめようかなア)

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kenzee「この前、20年ぶりぐらいに合コンに行ってきた」

司会者「? ??? 合コン? オッサンなのに?」

kenzee「友人に頼まれ、人数合わせ的に招集されたのだった。無論、そのような腐ったブタのような活動にまったく興味のないオレの心を動かせたのはこの一言だ」

                「お酒は飲み放題です」

kenzee「シャレたバーにおいて宴は開催された。つまり、若い男女が集い、グイグイ飲み倒していいパーチーだったら楽しいな、と思って出かけた。そしたらしゃー」

司会者「若い人ばっかりだったんだろ」

kenzee「みんな10歳は若い人たちだったねえ。で、ビンゴゲームとか席替があったりして、焼酎とかグイグイ飲みながらギャルとトークするという指向であった。

ギャル「kenzeeさんっておいくつなんですかア?」

kenzee「イ、いくつにみえますウ? ゲヘゲヘ」

司会者「最低! よくつまみだされなかったな!」

kenzee「で、「黒糖焼酎は奄美大島以外では製造が禁止されている」とか「芋焼酎と焼き芋焼酎は製造工程が違う」とか絶対ギャルの興味のなさそうな話ばっかりして帰った」

司会者「「オレ、ロックンロール文章家」とか言わなかったの?」

kenzee「言わない言わない! タダのサラリーマンで参加したのだ」

司会者「「オレ、わりかし有名なブロガー」とか」

kenzee「言わない言わない! ちなみにフダン、キャバクラとか行った時なら「葬儀屋ケンちゃん」という架空の裏アカウントキャラで押し通すことがよくあるんだけど」

キャバ嬢「お客さん、お仕事なにされてるんですかア?(水割りカランカラン)」

kenzee「オレ? オレ葬儀屋。もう暑くなってくると年寄りバタバタクタバっちゃうんで大変ヨ~。毎日肉体労働ですよ」

嬢「葬儀屋さんってそんな毎日忙しいんですかア?(カランカラン)」

kenzee「ああ忙しいヨ! だって人って毎日死んでるからネ! でも祭壇とか花とかあの手のセットって基本、使い回しだから葬儀ってやればやるほど原価率減っていくんだ。なので夏場の葬儀なんてボロ儲けだヨ! あと、人って絶対死ぬし、基本、人がイヤがる仕事だからこの業界、公務員並みにカタイよ! 彼氏にするなら葬儀屋だネ!(すべて想像だけで言ってます)」

嬢「そうなんですカー!ヘエー」

kenzee「という展開がありがちで、カラオケのついてるキャバだったらこのあと、徳永のレイニーブルーを歌うんだけどさ」

司会者「知らないよ!」

kenzee「今回は会社の人間が何人もいるのでその手も使えず地味な酒好きのオッサンと成り果てていたのだ。で、今日はそんな話じゃなくって、酒の話なんですよ」

司会者「そういや、酒やめたんじゃなかったの?」

kenzee「イヤ、相変わらずグイグイ飲みまくっている。相変わらず便も軟便だ。休みなんか朝9時ぐらいから缶ビールプシューとかいって開けてるからね。だが、この間、合コンの若者たちを見てボクは唖然としてしまったのだ。なぜなら

       彼ら(彼女ら)は酒をほとんど飲まない(飲み放題なのに)

最初の乾杯ぐらいで生とかナントカカクテルみたいなモンは頼むのだが、あとはコーラとかウーロン茶とか、お楽しみ会みたいだ。無論、ハナから飲まない者も結構いる。そういった中でグビグビグビグビ飲んでるのはオッサン一人だけだ」

司会者「ウッワー、恥ずかしいー」

kenzee「ボクぐらいの世代だと飲めるのがカッコいい、みたいな、「一気」の最後ぐらいの世代だと思うんだけど、今の20代ぐらいの子ってコーラでもテンション上げてたりするじゃない? アレは新しいスキルですよ」

司会者「スキルもあるだろうし、あと自己管理能力でもあると思いますよ。次の日、仕事早いとか」

kenzee「オイラ自己管理もヘチマもなく、この10数年グビグビ飲み続けてきた。健康診断のたびに医者に「γGTP高いなオイ」とか言われながら飲み続けてきた。健康診断の結果が「要検査」となっていてもシュレッダーにジャー。その足で立ち飲み屋に赴く。しかしもうイイカゲンにしないとイカンのかな、と」

司会者「今の若い人、飲み会では嗜み程度にカンパーイ、とか言ってるけど家で一人とかでは飲んでないよ。晩酌という習慣はないと思うよ」

kenzee「エ? そうなの? ボク、この季節の夕方6時ぐらいの感じが非常に危険ゾーンなんだけど。「仕事終わったー、アレ?なんか涼しい、みたいな。冷酒的ななにか?…ってなりますね」

司会者「キミはアルコール依存症の可能性が非常にたかいぞ!(ドーン!)」

kenzee「まさか…手が震えたりはしないよ」

司会者「アルコール依存症というのはそういうマンガ的イメージでみんなゴマかしてしまうが、もっと日常的なものなのです。ここのサイトに久里浜式アルコール依存症スクリーニング・テスト(KAST)というものがある。中島らもの名著「今夜、すべてのバーで」でも登場した歴史ある、また信憑性の高いテストだ。キミは何点?」

kenzee「ハ! 10.5点…アナタは依存症ですって!」

司会者「キミの酒生活は完全に依存症のソレだよ。ビール一杯でやめられないだろ?」

kenzee「ムリっす。日本酒とかにいきます」

司会者「あと、立ち飲み屋をハシゴしたりするだろ? しかも一人で」

kenzee「そんな酔狂につきあうヤツももういないしなあ」

司会者「あと、休みになると午前中から飲んでるよな」

kenzee「そのために金曜の晩のうちに冷蔵庫に備蓄しておくのだ」

司会者「ソレ、中島らも、赤塚不二夫、ECDみたいなアル中まであと一歩状態だぞ。キミはフダンの生活、単車で移動することと、昼間のカタギの仕事があるからまだ、その程度で済んでいるが、例えば単車のいらない都会でワンルーム借りて、物書き専業になったらどうなるか、そして仕事が行き詰ったらどうなるか!」

kenzee「アワワワ、間違いなく連続飲酒、ある日中島らものように倒れ、アル中病棟に入院かア。本当に皮一枚という感じがするな。ま、ボクのアル中警告本といえば無論「今夜、すべてのバーで」が基本なのだが、

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ECD「失点イン・ザ・パーク」もリアルなアル中小説だ。

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そして最近でたアル中警告本の決定版はコレ。西原理恵子、吾妻ひでお「実録!アルコール白書」。

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吾妻ひでおと言えば鬱病、失踪、アルコール依存と大変な経験を「失踪日記」というベストセラーにまとめた最後に人生一発逆転のギャグマンガ家。西原理恵子はいわずと知れた「毎日かあさん」のあの人だが、2007年に亡くなったご主人、鴨志田譲。彼がとんでもないアルコール依存症でサンザンな目に遭った経験をまとめたのが「毎日かあさん」だ。とにかく家の中では悪態ばかりつき、大事な原稿を破り捨てられることもあったという。そんなのサッサと別れればいいじゃないと思うが、(無論、一度離婚している)そう簡単な話でもないところが日本社会におけるアルコール依存症と家族の関係だ。いつもはオモシロトークで一服の清涼剤のようなサイバラ本なのにこの本だけはひたすら悲愴な体験ばかりが登場し、サイバラじゃないみたいだ。まず、ボクのような人間が、「ハハーン、オレは軽度の依存症なんだな」とか言うと、サイバラさんは激怒するのだ」

アルコール依存症は、その人にとって酒がある日、覚せい剤になってしまう病気。シャブ中に軽度も重度もない。(by西原理恵子)

我々酒呑みにとって、特別な存在なのは中島らも氏だが、そんな中島氏に対してもこの本は厳しい。

中島らもさんが魅力的に描かれるのはじつはこの病気にとってマイナスなんですよね。本人の才能と、酒での奇行などがごっちゃにされていると思います。それに亡くなったあとにテレビでドキュメンタリーやると「支えていた周りの人々」が美談として紹介されてしまうでしょ? 厳しい言い方すると周りの人が支えていたから死ぬまで飲んでたんですよ」(by月乃光司)

我々音楽好きの酒呑みにとっては神扱いの高田渡もケチョンケチョンだ。おそらくそれは正しいのだろう。この本で槍玉に挙げられていない神といえばなぎら健壱さんぐらいで、これを読んだら酒飲むのが怖くなってくる。中島氏、ECD、鴨志田譲、みんな連続飲酒に陥った原因はイロイロだ。中島氏は売れっ子コピーライター、エッセイスト、劇作家としてヒッパリダコの時代にミステリー小説の依頼を受けてしまった。取材したり資料読みあさってるうちは楽しかったがイザ、執筆となるとまったくミステリーの資質がないということに気づいてしまった。もう広告も出回っている。連日、編集者からの催促。そのまま連続飲酒へ。(連続飲酒とは文字通り、起きてから寝るまでひたすら飲酒を繰り返している状態。中毒状態)バッタリ倒れ、病院へ。ECDはもっとメンタル的に複雑だ。ECDは未だに伝説と語り草になっているヒップホップ・イベント「さんぴんCAMP」を主催したミュージシャン・ラッパー。当時無名であったユウ・ザ・ロックやジブラ、ライムスターなどをフックアップした人物だ。彼らはタレント的に売れ、ブレイクしていった。翻ってECDはドン底であった。エイベックスとの契約も切れ、音楽への情熱も冷め、そのまま連続飲酒へと突き進んでいった。一命を取り留めたECDは今は一滴も酒を飲まないという。未だにライブなどで「ECDオツカレ!オレの酒のんでくれよ!」みたいなファンがあとを絶たないそうだが、キッパリ断るのだそうだ。「ノリが悪いとか関係ない。二人の子供を守らなくてはならないのだ」しかし、中島氏は「酒とつまみ」2002年10月発行の創刊号収録の「集団的押しかけインタビュー」によれば「飲まない日というのは、ほとんどないですね。夜だけは」と答えている」

司会者「あともうちょっとでアンタもこういう人たちの仲間入りだよ」

kenzee「それは怖い。酒で死ぬのはイヤだ」

司会者「節酒すればいいじゃない。缶ビール1本だけにするとか」

kenzee「それが村上春樹だ。スパゲッティ茹でながら冷えたビールを飲んだだの、デビュー作はジャズ喫茶の営業が終わってからビール1本飲んで毎日コツコツ書いた、とか。そんなスマートな飲み方できたら誰も苦労しないよ!」

司会者「逆に今の若者たちはみんな村上春樹みたいなモンなんですな」

kenzee「そりゃ売れるワケだよハルキ。あのオッサンが泥酔してるとことか想像つかないもんね。ビール1本で終わりにできるヤツなんて信用できんよ。「じゃ、次は日本酒かナー」という方向にナゼ行かん?」

司会者「節酒すればいいじゃない?」

kenzee「節酒はダメだ、断酒だとサイバラさんは強く主張する。酒を調味料として使う料理も好ましくないと。一滴ならいいだろう、は1杯ならいいだろうにすぐ繋がる、と。あとはダムが決壊するのと一緒。ボクは今週、1滴も飲んでないんだ。ソシタラシャー、軟便が止まらないのだ」

司会者「体がビックリしてるんじゃない? 退薬症状なのかな?」

kenzee「確かに飲み続けて10数年、3日連続で飲まなかった日はなかったかもしれん。なにしろウチは父親がかなりの飲兵衛で、もう70歳半ばなのに毎日発泡酒を5~6本ぐらい開けている。これが基本で、お中元とかお歳暮で酒とかワインとかが贈られてくると2日ぐらいでパッカリ空いてしまう。なんでなんともないんだろ?」

司会者「このままやめれればいいのにね。だって、酒飲んでる時間って壮大な無駄でしょ?」

kenzee「ムダだ。例えばビール1本、日本酒2合、飲んだとする。そのあと、数時間は使い物にならない体となる。メールやツイッターのチェエクすら億劫になる。映画などもイマドキのヤツは集中力を要求されるのでイヤだ。結局、音楽を聴くことになるが、J-POPみたいなチャカチャカした音楽もダメ。必然的にR&Bになる。金もムダだ。安い立ち飲み屋でもビール1本400円ぐらいする。つまみにポテサラとかサバのきずしとか鳥わさとか頼むとコレで800円ぐらいいく。で、ビールだけで終われるワケないので、冷酒にいく。するとさらに400円。もう一品、つまみを。漬物とかだし巻き卵とか。これで2000円ぐらいいっちゃう。これがカフェだとシャレたケーキセットみたいなモンでも500円ぐらいなんでしょ?(コッチ系の相場はよく知らない)」

司会者「カフェとかスタバとかタリーズコーヒーとかWi-Fiとかと無関係な人生だったよな」

kenzee「ウン。そんなことより赤垣屋だった。スタバなんて人生で一回入ったかどうかだ。でね、今日のまとめは、高田渡の葬式で息子の高田蓮さんが「今日は皆さん、オヤジのために集まってくれてありがとう。でも最後に息子から言わせて欲しい。あの酒飲みのオヤジは最悪だったと」と言われたそうだ。サイバラさんが深く納得、と。たぶん、酒に意地汚い、最低のオヤジだったと思うんだ。でも、最低オヤジの歌に淒い酒飲み賛歌があるんだよ。「酒が飲みたい夜は」

酒が飲みたい夜は 酒だけではない 未来へも口をつけたいのだ
日の明け暮れ うずくまる腰や 夕暮れとともに沈む肩

酒が飲みたい夜は ささくれ立った指が 着物のように着た夜を剥ぐ
真夜中の大地を 掘り返す 夜明けは誰の 葡萄の一房だ

フザけた言い分なのに、全然邪気のない、美しい世界だと思わない? 「夜明けは誰の葡萄のひと房だ」っていうフレーズが好き。「いせや」でダラダラ飲んでるだけのオヤジが一瞬、聖書の登場人物みたいに見える。これも音楽のマジックなんだろうね」

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